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モラーレス『ミサ・ミル・ルグレ』(ALMAVIVA) [Morales]

■Cristóbal de Morales: Missa Mille Regretz
The Hilliard Ensemble [ALMAVIVA DS-0101](輸入盤)
DS0101f.JPG

【演奏】
ヒリアード・アンサンブル
デイヴィッド・ジェイムズ、ロバート・ハル=ジョーンズ(CT)
ジョン・ポター、ロジャース・カヴィ=クランプ、マーク・パドモア(T)
ゴードン・ジョーンズ(Bs)

【曲目】
クリストバル・デ・モラーレス
『ミサ・ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』
サンクトゥス(1568年異稿)
アニュス・デイ(1568年異稿)
マニフィカト
『第7旋法によるマニフィカト(Magnificat de VII tono)』
モテット
「より良き生活のうちに(Emendemus in Melius)」
『ヤコブは嘆きぬ(Lamentabatur Jacob)』
『おお、十字架よ、めでたし 唯一の希み(O Crux, Ave Spes Unica)』
ジョスカン・デ・プレ(Josquin després, c.1440-1521)『ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』
録音:1991年3月、セヴィリア、ロレトのヌエストラ・セニョラ修道院。
アルマビーバは、スペイン、アンダルシアの音楽遺産の普及を目的として、アンダルシア地方政府を中心に設立されたレーベル。CDの入手は必ずしも容易ではないが、アンダルシア音楽資料センター等の協力のもとに、国内外から第一線の演奏家を招き、優れた音源を世に出しており、発売から約20年が経過した本作品はその第一作。


【作曲者】
クリストバル・デ・モラーレス(Cristóbal de Morales, c.1500-1553)は、スペイン黄金期を代表する作曲家のひとり。モラーレスは、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548-1611.8.20)、フランシスコ・ゲレーロ(Francisco Guerrero, c.1528-1599)と並び、16世紀スペインの三大作曲家に数えられている。
モラーレスは、1500年頃、スペイン、アンダルシア地方のセヴィリアに生まれた。モラーレスの生い立ちについてはあまり詳しく知られていないが、姉妹がおり、1530年の姉妹の結婚前に父を亡くしたことが記録に残されている。同時代のセヴィリアの記録には、1503年に大聖堂財務官に任ぜられたアロンソ・デ・モラーレス(Alonso de Morales)、参事会員フランシスコ・デ・モラーレス(Francisco de Morales )、 1525年に大聖堂管財人となったディエゴ・デ・モラーレス(Diego de Morales)等の名前があり、いずれもモラーレスの縁者と目されている。
モラーレスがセヴィリア大聖堂に少年聖歌隊員として在籍した記録はないが、当時のセヴィリアは、新大陸との中継地として栄え、フランシスコ・デ・ペニャローサ(Francisco de Peñalosa, c.1470-1528.4.1)、ペドロ・デ・エスコバル(Pedro de Escobar, c.1465-c.1535)、ペドロ・フェルナンデス・デ・カスティージャ(Pedro Fernández de Castilleja, c.1480-1574.3.5)等、当代一流の音楽家たちが集まっていた。モラーレスは、生地のセヴィリアでこうした音楽家たちのいずれかに師事し、音楽を学ぶとともに、ラテン語等の古典的な教養を身につけた可能性が高いと考えられている。
モラーレスは、1526年にアビラ大聖堂楽長(maestro de capilla)に任命され、1527年から1530年の間にプラセンシア大聖堂楽長により高報酬で任命された。モラーレスは、1531年末にプラセンシア大聖堂に辞職願を提出したが、事実上、1930年には活動の拠点をイタリアに移していたと見られる。モラーレスは、当初、ナポリで活躍していたのではないかとする見方もあるが、1935年にはローマへ移り、同年9月1日付で教皇庁聖歌隊員となった。教皇庁には、スペインのバレンシア地方を発祥の地とするボルジア家(Borja)出身の教皇、カリストゥス3世(在位:1455-1458)ならびに、その甥、教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503)以来、スペイン出身者を積極的に登用する伝統があり、それがファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(在位:1534-1549)によるモラーレスの採用にも有利に働いたと考えられる。
モラーレスは、おそらくはテノール歌手兼作曲家として、1545年までの十年間を教皇庁聖歌隊で過ごした。同時期の教皇庁聖歌隊には、フランドル楽派の作曲家ジャック・アルカデルト(Jacques ArcadeltまたはJacob Arcadelt, c.1504-1568. 10.14)や、国際的な名声を得た最初のイタリア人多声作曲家とも評されるコンスタンツォ・フェスタ(Costanzo Festa, c.1485~1490-1545.4.10)等が在籍していた。教皇庁聖歌隊員には、教皇庁のミサや聖務日課時の演奏のほか、教皇パウルス3世のイタリア諸都市及び南フランス訪問への随行や、各国君主等のローマ訪問歓迎式典での演奏の務めもあり、それらの教皇庁内外での演奏は、作曲家たちが自作品を披露する絶好の機会でもあった。モラーレスもまた、それらの演奏機会を通じて、その名声を高めていった作曲家のひとりであり、1539年頃からは、そのモテットが様々なアンソロジーに編まれ、ヨーロッパ各地で人気を博した。やや遅れて1540年頃から、イタリア、フランスで、モラーレスのミサ曲が出版され始めると、モラーレスは、1544年にローマでミサ曲集を出版し、その第1巻(Missarum liber primus)をフィレンツェ大公コジモ1世、第2巻(Missarum liber secundusを)教皇パウルス3世に、それぞれ献呈した。このとき、モラーレス自身によって書かれたラテン語の献呈文からは、モラーレスのラテン語の素養の高さが伺われる。
しかし、マドリガーレのような世俗音楽を多作したアルカデルトやフェスタがメディチ家の宮廷と深いつながりを持ったのとは対照的に、教会音楽作曲家であるモラーレスは、コジモ1世の歓心を得ることがかなわなかった。モラーレスはまた、教皇パウルス3世の孫、アレッサンドロ・ファルネーゼ・イル・ジョヴァーネ枢機卿に手紙を送るなどしたが、教皇パウルス3世からも思うような引き立ては得られず、モラーレスのイタリアにおける求職活動は、結局のところ、失敗に終わった。加えて、教皇庁聖歌隊在職中の1540年頃から、モラーレスの健康状態が悪化し、一説にはマラリアといわれる周期的な高熱のため、務めに遅刻や病欠が目立つようになったことが勤怠記録から明らかとなっている。
モラーレスは、1545年5月1日付で教皇庁聖歌隊を辞職し、故国スペインに帰国する途を選んだ。モラーレスは、1545年にトレド大聖堂楽長に任命され、1548年にマルチェナでアルコス侯爵の宮廷楽長、1551年にマラガ大聖堂楽長を歴任した。モラーレスは、スペインに帰国した頃にはすでに、ヨーロッパで最も偉大な作曲家のひとりとして認められており、1548、1552年に出版されたフランソワ・ラブレー(François Rabelais, c.1483-1553.4.9)の『第四之書』序文にも、「私は空想の庭園で、モラーレスや他の優れた音楽家たちが見事に歌うのを聴いた」とその名が登場している。故国スペインにおいても、モラーレスの音楽は同世代の作曲家、ビウエラ奏者のミゲル・デ・フエンラナ(Miguel de Fuenllana c.1500-1579)等に影響を及ぼし、人文学者、作家のクリストバル・デ・ヴィラロン(Cristóbal de Villalón, c.1500-1588)、 僧職者、作曲家のフアン・バスケス(Juan Vásquez またはVázquez, 16世紀初頭-c.1560)や、作曲家、音楽理論家のディエゴ・オルティス(Diego Ortiz , c.1510-c.1570) 等もモラーレスの楽才を讃えたと伝えられる。また、音楽学者、作曲家のホアン・ベルムード(Juan Bermudo, c.1510-c.1565)は、1555年に出版した著書(“Declaración de instrumentos musicales”)のなかで、モラーレスを「音楽におけるスペインの光」と激賞した。
モラーレスの作品は、その生前から、宗教改革の気運が高まりつつあったドイツを含む、ヨーロッパ全域で出版され、新大陸のスペイン領ペルー、クスコ大聖堂や、メキシコのプエブロ大聖堂等にも楽譜が伝えられていった。例えば、モラーレスの5声の「レクイエム」(1544)は、1559年11月にメキシコシティで行われた神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の追悼式において演奏され、1598年のスペイン王フェリペ2世の葬儀でも演奏された。
モラーレスの作品に対する評価は、その死後もなお高く、およそ1世紀の長きにわたって、多くの作曲家、音楽学者の模範であり、研究の対象であり続けた。1700年に教皇庁聖歌隊長に任命されたイタリア人カストラート、アンドレア・アダミ・ダ・ボルセナ(Andrea Adami da Bolsena,1663-1742)は、1711年に教皇庁聖歌隊の歴史や、過去に奉職した音楽家たちに関する著作(“Osservazioni per ben regolare il coro dei cantori della Cappella Pontificia”)をあらわし、モラーレスを「教皇庁聖歌隊で、ジョスカン・デ・プレとパレストリーナの間で最も重要な作曲家」と位置づけた。
しかし、そうした名声とは裏腹に、スペインに帰国したモラーレスの後半生は、順風満帆とは言い難かったようである。モラーレスは、トレド大聖堂楽長時代、持病に加え、少年聖歌隊員の教育等、楽長職に課せられた作曲及び演奏以外の任務の多さや経済的困難に苦しみ、辞職を余儀なくされた。もっとも、モラーレスがトレド大聖堂辞職後も二、三年毎に転職を繰り返し、安定した境遇を得られなかった原因のひとつは、モラーレス自身にあり、実務に疎く、気難しく、傲慢とも映る性格や、歌手たちに過酷な要求を突きつけ、妥協を許さない姿勢等が、孤高の天才モラーレスと周囲との軋轢を招いたのではないかとの憶測があることも事実である。
モラーレスは、1553年9月4日付で、トレド大聖堂楽長への復職を願う内容の手紙をしたためたが、その願いを果たせぬまま、10月7日までの間に、マルチェナで世を去ったと見られる。
イベリア半島最初の大作曲家、モラーレスの音楽は、弟子のフランシスコ・ゲレーロや、その同時代人の作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリアらのそれとともにスペイン黄金期を彩った。聖母マリアに捧げるモテットを数多く作曲し、「マリアの歌い手」と呼ばれたゲレーロは、モラーレスのモテット「全地よ、神に向かいて歓呼せよ(Jubilate Deo omnis terra)」を原曲とするパロディ・ミサ「神聖にして汚れなき処女マリアよ(Sancta et immaculata virginitas )」を作曲し、ビクトリアもまた、同曲を原曲とするパロディ・ミサ「ミサ・ガウデアムス(mass Gaudeamus)」を作曲している。なお、パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525-1594.2.2)により、モラーレスのモテット「おお、聖なる饗宴よ(O sacrum convivium)」を原曲とする同名のパロディ・ミサが作曲されている。


【作品の周辺】
モラーレスは、マドリガーレ1曲、モテット数曲の世俗曲を残してはいるものの、その作品は、ほぼすべて宗教曲である。モラーレスは、あらゆる教会音楽を作曲しており、少なくともミサ曲23曲、モテット100曲余、マニフィカト18曲、エレミアの哀歌5曲等が現存している。同時代のフランドル楽派の作曲家、ニコラ・ゴンベール(Nicolas Gombert, c.1495-c.1560)がミサ曲10曲、モテット160曲余、その他諸作品を残したことと比較しても、作品数では、モラーレスに遜色はないと言える。
モラーレスの作品は、パレストリーナの先駆けとも評される美しい響きと、スペイン独特の深い情感を湛えていることによって特徴づけられる。そうした特徴は、フランドル楽派のポリフォニー技法とイベリア半島古来の作曲様式の融合による部分が大きいと考えられ、モラーレスの作品には、同時代の作曲家に比べ、調性やリズムの自由さが目立ち、現代人には調性音楽のように聞こえる和声進行や、ポリリズム等が認められる。モラーレスはまた、マニフィカトをあらゆる教会旋法で作曲したイベリア半島で最初の作曲家であり、モラーレスが教皇庁聖歌隊向けに作曲した作品は、いずれも技巧を凝らした難曲である。すでに失われてしまった作品もあるが、モラーレスのモテットでは、『より良き生活のうちに(Emendemus in melius)』と『ヤコブは嘆きぬ(Lamentabatur Jacob)』が特に有名な作品で、後者は18世紀まで教皇庁聖歌隊で演奏された。
現存するミサ曲のうち16曲は、モラーレス自身の監修により、1544年に出版されたミサ曲集全2巻に収められており、第1巻所収の『ミサ・ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』及び、第2巻所収の5声の『レクイエム』は、モラーレスの代表作にあげられることも多い作品である。
モラーレスは、『ロム・アルメ』など世俗曲を原曲とするパロディ・ミサを6作品残しており、『ミサ・ミル・ルグレ』は、ジョスカン・デ・プレのフランス語シャンソン『ミル・ルグレ』に基づく6声のパロディ・ミサである。原曲の『ミル・ルグレ』は、愛するひととの別れの悲しみを歌った4声の世俗曲で、ヨーロッパで大流行した。従来、ジョスカン・デ・プレの作品とされてきた『ミル・ルグレ』は、他の作曲家の作品ではないかとして、定説に疑問を投げかける向きもあるが、同曲は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の愛唱歌とされ、同時代のスペインの作曲家ルイス・デ・ナルバエス (Luis de Narváez, c.1500-c.1555~1560) は、ビウエラのために編曲した『皇帝の歌』等を残した。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の宮廷礼拝堂歌手であったニコラ・ゴンベールも『ミル・ルグレ』を原曲とするパロディ作品を作曲していることなどから、モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』は、1536年にローマを訪問した神聖ローマ皇帝カール5世に献呈された作品ではないかと考えられている。
モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』では、原曲の最上声部の旋律を借用して、ソプラノ2声、アルト2声、テノール、バスの6声部によってミサ通常文が歌われ、モラーレスの重厚かつ荘厳な作風と哀感を帯びた原曲のメロディが見事に合致した美しい曲に仕上げられている。 


【歌詞】

◆ジョスカン・デ・プレ『ミル・ルグレ』仮訳(原文は古フランス語、英語訳からの重訳)
Mille regretz de vous habandonner
あなたと別れ
et d'eslonger vostre fache amoureuse
あなたの愛らしい顔から遠ざかる千々の悲しみ
J'ay si grand deuil et paine douloureuse
かくも深き嘆きと悲痛のうちに
qu'on me verra brief mes jours deffiner
我が人生も間もなく終わりを告げるかのよう


【演奏の周辺】
ヒリアード・アンサンブル(Hilliard Ensemble)は、1973年頃設立されたイギリスの男声声楽アンサンブル。エリザベス朝の細密画家ヒリヤードに由来する団体名が示すように、精緻なアプローチと申し分のない技巧が持ち味で、そのレパートリーは、イギリス、フランドルのルネサンス音楽を中心に、ノートルダム楽派のオルガヌムからアルヴォ・ペルト等の現代音楽にまで及び、1993年のノルウェーのサクソフォン奏者ヤン・ガルバレクとのコラボレーションCD『オフィチウム』は、ポップチャートを賑わせる大ヒットとなった。オリジナル・メンバーのポール・ヒリアーは1990年に脱退し、ソロ活動を行っているが、ヒリアード・アンサンブルとしては、EMI-Reflexe、ECM、Virgin-veritas、Hyperion、Harmonia mundi、Hilliard Live(CORO)等から多数の音源が発売されている。

◆ヒリアード・アンサンブル公式サイト
http://www.hilliardensemble.demon.co.uk/


【その他の録音】
◆Cristóbal de Morales, Missa mille regretz
Paul McCreesh(dir.) Gabrieli Consort & Players [Brilliant Classics 93904](2009)
◆Morales: Messe Mille regretz
Victor Alonso(dir.) Concert de Les Arts [Accord 204662] (1996)
◆Morales: Missa Mille regretz & Motets
Joseph Jennings(dir.) Chanticleer [Chanticleer records 8809](1993)


【参考サイト】
◆国際楽譜ライブラリープロジェクト
International Music Score Library Project/ Petrucci Music Library
http://imslp.org/wiki/Main_Page
http://imslp.org/wiki/Category:Morales,_Crist%C3%B3bal_de
クリストバル・デ・モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』を含め、クラシック音楽の楽譜が無料ダウンロードできるサイト。

【参考文献】
◆Don Michael Randel “The Harvard biographical dictionary of music”, Harvard University Press, 1996, pp.606
◆Klauss Pietschmann “A Renaissance composer writes to his patrons : newly discovered letters from Cristóbal de Morales to Cosimo I de’ Medici and Cardinal Alessandro Farnese”, EARLY MUSIC Volume XXVIII Issue 3 2000, pp. 383-402.
Subscription access(last accessed 30 October, 2010)
http://em.oxfordjournals.org/content/XXVIII/3/383.full.pdf+html
http://em.oxfordjournals.org/content/XXVIII/3/383.extract
◆Dionisio Preciado “The “Mille regretz” Mass by Morales” Liner notes for Cristóbal de Morales: Missa Mille Regretz (ALMAVIVA DS-0101, 1991) pp.12-17
◆Rui Vieira Nery “Cristóbal de Morales Officium Defunctorum / Missa pro Defunctis” Liner notes for Cristóbal de Morales: Officium Defunctorum Missa pro Defunctis(ASTREE ES9926, 1999) pp.11-15
◆Jordi Abelló “Calling oneself Morales” Liner notes for Cristóbal de Morales: Requiem, Lamentabatur Jacob(Cantus C2697, 2000) pp.29-33

共通テーマ:音楽

『聖母マリアのカンティガ集』(ASTREE) [Codex]

■Alfonso X El Sabio, Cantigas de Santa Maria
[AUVIDIS ASTREE E8508](輸入盤・廃盤)
E8508f.JPG

【演奏】
ジョルディ・サヴァール指揮
ラ・カペラ・ライアル・デ・カタルーニャ
エスペリオンXX

アルフォンソ10世(賢王)『聖母マリアのカンティガ集』(CSM)選集
1. 序曲 (CSM 176)
2. Santa Maria, strela do dia「聖母マリア、夜明けの星よ」(CSM 100)
3. Pero cantigas de loor「聖母を讃えあらゆるカンティガを書きはしたが」(CSM 400)
4. 器楽曲 (CSM 123)
5. Muito faz grand' erro「大いなる過ちのうちに生き、神の善き行いを否定する者は」(CSM 209)
6. Por nos de dulta tirar「我らを疑いから解き放つため」(CSM 18)
7. 器楽曲 (CSM 142)
8. Pode por Santa Maria「聖母マリアの御為に」(CSM 163)
9. Miragres fremosos faz por nos「驚くべき奇蹟の数々」(CSM 37)
10. 器楽曲 (CSM 77-119)
11. De toda chaga ben pode guarir 「すべての傷や痛みは癒され」CSM 126)
12. Pero que seja a gente「たとえ異教徒であろうとも」(CSM 181)
13.最終曲 (CSM 176)

録音:1993年2月、カタルーニャ、カルドナ城附属王立修道院
2000年にデジパック仕様盤 (ASTREE ES9940)として再発されたが、廃盤となり、2009年Alia Voxより再々発された。

【作品の周辺】
『聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)』は、13世紀の後半に、カスティーリャ・レオン王国の国王アルフォンソ10世(Alfonso X、1221.11.23-1284.4.4)が編纂した歌曲集。
カンティガとは、当時のイベリア半島で歌われたガリシア=ポルトガル語の単旋律歌曲で、頌歌とも呼ばれる。『聖母マリアのカンティガ集』は、聖母マリアの奇蹟を讃えた頌歌集で、420曲余の収録曲のうち、350曲余が物語歌となっている。そのほとんどは、聖母マリアがさまざまな困難や苦難に直面した人々の前に現れ、病気や傷を癒し、救いを授けるという内容の物語である。例えば、第209番は、死をも覚悟する激しい痛みに襲われたアルフォンソ10世の病床で、王の身体の下に『聖母マリアのカンティガ集』を差し入れたところ、病気が癒されたという奇蹟、第367番は、アルフォンソ10世がサンタ・マリア・デル・プエルトの教会を訪問後、傷めていた脚を癒されたという奇蹟の物語歌である。また、第7番は懐妊した尼僧をめぐる奇蹟、第323番は死んだ男の子を聖母が生き返らせた奇跡の物語歌等となっている。第361番は、ラス・ウェルガス修道院の聖母マリア像の奇蹟の物語歌で、物語歌の多くはイベリア半島を舞台としているが、第39番はフランス、モン・サン=ミッシェルの物語歌であり、物語歌の舞台はヨーロッパ各地に広がりを見せている。
『聖母マリアのカンティガ集』の編纂は、アルフォンソ10世の治世の大半を費やした一大プロジェクトで、ローマ法に基づく『七部法典』、『アルフォンソ天文表』、『イベリア史』の編纂をはじめ、学問や芸術の庇護等、文化・行政面の功績により《賢王:エル・サビオ(el Sabio)》の誉れ高き国王、アルフォンソ10世自らも編纂に携わり、ヨーロッパ各地に伝わる聖母マリアの奇蹟をもとに吟遊詩人らに作詞、作曲を依頼したと見られる。
『聖母マリアのカンティガ集』は作者不詳とされているが、自ら詩作を行っていたことでも知られるアルフォンソ10世がその収録作品のいくつかを手がけたことは、プロローグ等から見てほぼ確実とする研究もあり、その作品やアルフォンソ10世が関与した範囲の特定をめぐって議論が続いている。また、現存する作品等から、吟遊詩人アイラス・ヌニェス(Airas Nunes, c.1230-1289)が作者のひとりである可能性が高いことが指摘されている。
13世紀のイベリア半島では、司祭で詩人でもあったゴンサロ=デ=ベルセオ(Gonzalo de Berceo, c.1180-1246)の『聖母マリアの奇蹟(Los milagros de Nuestra Senora)』等の作品も誕生しており、『聖母マリアのカンティガ集』の編纂以前から、聖母マリアの奇蹟を主題とする作品が既にいくつか存在していた。アルフォンソ10世の宮廷ではまた、ユダヤ教徒や、レコンキスタ(国土回復運動)後も改宗せずに残留したイスラム教徒、ムデハル(mudejar)の楽士らも歓迎され、カンティガの演奏において重要な役割を果たしていたと見られる。しかし、アルフォンソ10世の宮廷で楽士らに演奏されていたのは、専ら世俗的なカンティガであり、聖母マリアを讃える宗教的なカンティガ集の編纂には独創的な面があったことが伺える。『聖母マリアのカンティガ集』の編纂がすすめられた背景としては、アルフォンソ10世の文学趣味、各種の編纂事業に対する理解やパトロン精神に加え、何よりその聖母マリア信仰の篤さが大きな原動力であったと考えられている。
現存するカンティガ集のなかでも、その規模、内容ともに随一の作品である『聖母マリアのカンティガ集』は、中世ヨーロッパにおける聖母マリアの奇蹟の伝承を蒐集した成果の結晶であると同時に、その典雅な響きから、当時、叙情詩に最もふさわしいとされたガリシア=ポルトガル語による代表的な文学作品とも言える。
歌詞は、2音節、17音節のものも散見されるが、8音節詩が中心で、収録曲は、ネウマ譜で記譜されており、カンティガ10作品毎に賛歌(頌め歌)がさしはさまれている。現在の曲名は、冒頭句からの訳出によるもので、収録曲は当時の世俗的なカンティガや民謡に基づくものと考えられてきたが、ロンドー、ヴィルレーの変則的なスタイルを多く含んでいるとして、北フランスからの音楽的な影響が指摘されるようになった。全曲録音こそいまだにないが、美しくも、素朴で親しみやすい旋律を特徴とし、セヘル(Zejel)と呼ばれるアラブ系の詩のスタイルを色濃く残している『聖母マリアのカンティガ集』は、東西文化の交差点であった中世イベリア半島における音楽史を辿る上で、非常に興味深い作品である。
羊皮紙に細密画(ミニアチュール)の描かれた頌歌集はまた、贅を尽くした美術工芸品であり、当時の楽器や演奏の在り方を現代に伝える貴重な資料でもある。
音楽のみならず、文学、美術面での魅力を兼ね備えた『聖母マリアのカンティガ集』は、レコンキスタ(国土回復運動)を継承しながら、軍事、外交面での失政続きにより、最終的に王子サンチョに王位を奪われるかたちとなったアルフォンソ10世にとって、個人的に救済を求めるためのものであり、また、政治的な生き残りをかけた重要な施策のひとつでもあったと考えられている。
現在、『聖母マリアのカンティガ集』には、4冊の手稿本が伝わっており、スペインのマドリッド国立図書館(Biblioteca Nacional de Madrid)には、10069の署名のある手稿本が所蔵されている。1869年にマドリッド国立図書館に移管される以前に、一時期、トレド大聖堂に所蔵されていたことから、Toまたは Tolの略称で知られるこの手稿本には、プロローグおよび120作品余が含まれている。Toまたは Tolの収録作品は、第1番から作品番号順となっており、細密画(ミニアチュール)が描かれていないことなどから、現存する手稿本のうち、最も早い時期に制作されたものと推定されている。
王立エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院図書館(San Lorenzo del Escorial)には、T.j.1.の署名があり、TまたはT.j.1.の略称で知られる手稿本(códice rico)が所蔵されている。TまたはT.j.1.には、ToまたはTol所収の作品がほぼ再掲されているが、その付曲番号はToまたはTolとはやや異なる。TまたはT.j.1.は、タイトル、索引、プロローグおよび190作品余を含み、細密画(ミニアチュール)が最も多く描かれた豪華なつくりで、1271年から1280年代初頭にかけて制作されたものと見られる。TまたはT.j.1.は、16世紀にスペイン王フェリペ2世の命により、アルフォンソ10世が晩年を過ごした幽閉先のセビリアから、当時のエル・エスコリアル宮殿にもたらされたという由来のものである。
また、イタリア、フィレンツェ国立中央図書館(Biblioteca Nazionale Centrale, Florence)には、Banco Rari 20の署名のある手稿本が所蔵されている。Fの略称で知られるこの手稿本には、第109番に空白が残されているなど、未完成の部分が少なくない。しかし、FがTまたはT.j.1.のスタイルを踏襲しており、また、F所収の100作品余は、TまたはT.j.1.と全く重複せず、ToまたはTolとの重複も4作品に限られていることなどから、FはTまたはT.j.1.の続巻として制作されたと考えられる。Fの制作年代は、1279-80年以降と見られ、制作期間が1284年のアルフォンソ10世の逝去後に跨った可能性もある。アルフォンソ10世や王家関連のカンティガを多く含むFは、アルフォンソ10世の伝記的な性格を持ち、1270年代のアルフォンソ10世によるローマ教皇訪問とFを関連づける推察もあるが、Fがイタリアで収蔵されるに至った経緯については不明のままである。
王立エル・エスコリアル聖ロレンソ修道院図書館ではまた、TまたはT.j.1.と同様に、スペイン王フェリペ2世によりセビリアからもたらされた、EまたはB.j.2の略称で知られる手稿本(códice de los músicos)を所蔵している。EまたはB.j.2は、1282年以降の制作と見られ、完成を急いだ形跡が随所に見て取れるものの、タイトル、プロローグおよび400余作品(但し、ToまたはTol所収の10作品を除く)をほぼ完全なかたちで網羅しており、音楽面では最も充実した内容となっている。
オックスフォード大学『聖母マリアのカンティガ集』研究センターでは、2005年より、『聖母マリアのカンティガ集』のデータベース化を含む研究事業がすすめられている。
◆Centre for the Study of the Cantigas de Santa Maria of Oxford University
http://csm.mml.ox.ac.uk/


【歌詞】

◆「聖母マリア、夜明けの星よ」(CSM 100)仮訳(英語訳からの重訳)

Santa Maria, strela do dia
聖母マリア、夜明けの星よ
mostra-nos via pera Deus e nos guia.
我らに神の御許にいたる道を示し、導き給え

Ca veer faze-los errados
御身は道に迷い、罪ありて
que perder foran per pecados
過ちを犯せし者を救われたり
entender de que mui culpados son;
その罪を知りつつも
mais per ti son perdõados
御身は彼らを赦されたり
da ousadia que lles fazia
彼らが望まれざる悪事に手を染めしは
fazer folia mais que non deveria.
その蛮勇が為せしわざなればなり
Santa Maria, strela do dia,
聖母マリア、夜明けの星よ

Amostrar-nos deves carreira
我らにどうか
por gãar en toda maneira
とるべき道を示し給え
a sen par luz e verdadeira
無比なる、真実の光を
que tu dar-nos podes senlleira;
我らに与え給うは御身のみなり
ca Deus a ti a outorgaria
なぜなら神の御身に授け、
e a querria por ti dar e daria.
御身を通じ、我らに与えんと望まれしゆえなり
Santa Maria, strela do dia,
聖母マリア、夜明けの星よ

Guiar ben nos pod' o teu siso
御身の智恵こそが我らを導き給う
mais ca ren pera Parayso
天国にいたるまで、万事を
u Deus ten senpre goy' e riso
天国において、神は永久の喜びに満ち、
pora quen en el creer quiso;
神を信ずる者に微笑み給えり
e prazer-m-ia se te prazia
御身の思し召しにかなわくば
que foss' a mia alm' en tal compannia.
我が魂をともにせん
Santa Maria, strela do dia,
聖母マリア、夜明けの星よ


【演奏の周辺】
ジョルディ・サヴァールは、1941年、スペイン、カタルーニャ生まれ。スイスのバーゼル・スコラ・カントルムで、アウグスト・ヴェンツィンガーに学んだ。1974年からバーゼル・スコラ・カントルムでヴィオラ・ダ・ガンバを指導、同年にエスペリオン XX(2000年よりエスペリオンXXIに改称)を結成している。その後、1987年にラ・カペラ・レイアル・デ・カタルーニャ、1989年にル・コンセール・デ・ナシオンを結成、現在では主にソプラノ歌手の妻モンセラート・フィゲラスや二人の子どもたちと演奏活動を行っている。
サヴァールは古楽界を代表する演奏家、指揮者のひとりであり、とりわけ1970年代以降のヴィオラ・ダ・ガンバの蘇演に大きな役割を果たしたことで知られる。また1991年のフランス映画『めぐり合う朝』では音楽を担当し、グラミー賞にノミネートされた。録音は、当初EMI、1975年以降はASTREEで行っており、1998年には独自レーベルAlia Voxを立ち上げている。
◆ジョルディ・サヴァール オフィシャルサイト
http://www.alia-vox.com/

【関連動画】

◆Santa Maria, strela do dia「聖母マリア、夜明けの星よ」(CSM 100)


◆Pero cantigas de loor「聖母を讃えあらゆるカンティガを書きはしたが」(CSM 400)


【その他の録音】
◆Ensemble Unicorn“Cantigas de Santa Maria”[Naxos 8553133](1995)
◆Alla Francesca “Cantigas de Santa Maria”[OPUS 111 OPS30-308](2000)
(輸入盤・廃盤)
*現在、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに収録
◆Eduardo Paniagua “Santa Maria del Puerto 1”[Pneuma classics PN220](2000)
◆The Dufay Collective "Cantigas de Santa Maria"[Harmonia mundi HMU907390](2005)
(輸入盤)


【参考サイト】
◆Choral Public Domain Library(Choral Wiki)
http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Cantigas_de_Santa_Maria
『聖母マリアのカンティガ集』を含め、合唱音楽の楽譜を無料ダウンロードできるサイト(英語)
◆『聖母マリアのカンティガ集』ファクシミリ譜・サンプル画像(絶版、códice rico)
http://www.edilan.es/hojas/0002e.htm
◆『聖母マリアのカンティガ集』ファクシミリ譜・サンプル画像(F)
http://www.edilan.es/hojas/0003e.htm

【参考文献】
・Joseph F. O’Callaghan“Alfonso X and the Cantigas de Santa Maria: A Poetic Biography”,BRILL, 1998.


共通テーマ:音楽

『モンセラートの朱い本』(OPUS 111) [Codex]

■Llibre Vermell de Montserrat Cantigas de Santa Maria
ALLA FRANCESCA [OPUS 111 OPS 30-131](輸入盤・廃盤)

OPS30131f.JPG

【演奏】
エマニュエル・ボナルド
ピエール・アモン
ブリジット・レーヌ他
アラ・フランチェスカ

【曲目】
◇『ウェルガス写本』より
1.『低灌木によせて (In virgulto gracie)(器楽演奏)』

◇アルフォンソ10世(賢王)『聖母マリアのカンティガ集』より
2.『何と栄えある (Tanto son da groriosa)(器楽演奏)』(聖母マリアのカンティガ集第48番)
3.『イエス・キリストの御母( A Madre de Jhesu-Cristo)』(聖母マリアのカンティガ集第302番)
4.『夜も昼も (Mui grandes noit’e dia)』(聖母マリアのカンティガ集第57番)

◇『ウェルガス写本』より
5.『汚れなきカトリック教徒よ (Casta catorica)(器楽演奏)』

◇『モンセラートの朱い本』より
6.『おお、輝く聖処女よ (O virgo splendens)』(3声のカッチャ)
7.『輝ける星よ (Stella splendens in monte)』(ヴィルレー)
8.『処女なる御母を讃えん / 笏杖もて輝ける御身 (Laudemus virginem / Splendens ceptigera)』(3声のカッチャ)
9.『七つの喜び (Los set gotxs)』(バラータ)
10.『声をそろえ歌わん (Cuncti simus)』(ヴィルレー)
11.『あまねき天の女王よ (Polorum regina)』 (ヴィルレー)
12.『喜びの都の女王 (Imperayritz de la ciutat joyosa)』(2声のモテトゥス)
13.『処女なる御母、マリアを讃えよ (Mariam, matrem virginem)』(ヴィルレー)
14.『喜びの都の女王 (Imperayritz de la ciutat joyosa)』(2声のモテトゥス)
15.『七つの喜び (Los set gotxs)』(バラード)
16.『われら死をめざして走らん (Ad mortem festinamus)』(死の踊り / ヴィルレー)

録音:1994年11月、フォントヴロウ王立修道院
『ウェルガス写本』及び『聖母マリアのカンティガ集』作品をあわせて収録。聖母マリアのカンティガ集第48番は、モンセラートの聖母が修道士に泉の水を恵んだという奇蹟、第302番は、モンセラートの聖母がその聖堂内で盗みを働いた者を聖堂の外に出さなかったという奇蹟、第57番は、モンセラートへの巡礼路で、聖母が泥棒を悪業から救ったという奇蹟を主題としており、いずれもモンセラートの聖母に捧げられた作品である。
OPUS111は、ERATOのプロデューサー、エンジニアであったヨランタ・スクラが1990年に創設したレーベル。「音楽は商業ではなく、芸術」というコンセプトに基づき、優れた録音を次々と世に出し、新しいアーティストの発掘にも積極的に関わったが、創設者の引退に伴い、最終的にレーベルの活動を停止、2000年に諸権利がnaïve社に売却された。廃盤化されたOPUS111レーベルの音源再発の見通しは、残念ながら依然として不透明であるが、アラ・フランチェスカ『聖母マリアのカンティガ集』(OP30308)などは、Naxos Music Libraryで聴けるようになっている。
◆Naxos Music Library 
http://ml.naxos.jp/album/OP30308

【作品の周辺】
『モンセラートの朱い本(Llibre Vermell de Montserrat)』は、スペイン東部のカタルーニャ州、バルセロナ郊外のモンセラート修道院に伝わる14世紀の写本。
写本が生まれたモンセラート修道院の成り立ちからたどると、モンセラートとはギザギザな山を意味するカタルーニャ語に由来する地名であり、その名前の通り、淡紅色の礫岩の峰々がのこぎりの歯のように並ぶ奇怪な景観で知られる。ベネディクト会のモンセラート修道院は、1023-1027年頃、その岩山の南東、標高725mのマロ渓谷の岸崖を切り開いて建立された。
伝承によれば、50年頃に、聖ルカがイェルサレムで彫刻したとされる木彫の聖母像がスペインにもたらされ、その後イベリア半島を支配したイスラム教徒による破壊から守るため、718年に現在のモンセラート修道院近くの聖なる洞窟(サンタ・コバ, Santa Cova)に隠された。880年のある土曜日の晩、羊飼いの少年たちが、上空からまばゆい光が妙なる調べとともに降りてきて、モンセラートの山腹に留まるのを目撃した。羊飼いの少年たちとその両親は、次の土曜日にも同じ光景を目にした。その土曜日毎の不思議な光景は、数週間にわたり続き、その話を伝え聞いた麓の町マンレサの司祭が立ち会い、調べたところ、洞窟から聖母像が発見された。ところが、司祭が発見された聖母像をマンレサまで降ろそうとすると、聖母像が重く、どうしても動かすことができなかった。司祭は、聖母像をその地にとどめることこそ聖母の意思と考え、その地に聖母像を安置する聖堂を建立することにしたと伝えられる。
おおよそこのような伝承に基づき、9世紀末までには、モンセラートの山腹と山麓に4つの礼拝堂が献堂された。同じ頃、モンセラート山には、隠修士が多数集まって、思索と瞑想の生活を送っており、彼ら隠修士が修道院の基礎をなしたとされる。イスラム教徒からの失地回復を果たしたバルセロナ伯によって、モンセラート山とそれらの礼拝堂がカタルーニャ北部のサンタ・マリア・デ・リポイ修道院に寄進されると、1023-1027年頃、同修道院長オリヴァ(Oliva de Cerdanh)が、山腹のサン・イスクラ礼拝堂と隣接した場所に、サンタ・マリア・モンセラート修道院(以後、モンセラート修道院と略)を建立した。
やがて、聖母像をめぐる様々な奇蹟が知られるにつれ、モンセラートには多くの巡礼者が訪れるようになり、聖母マリア信仰の地モンセラートは、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラと並びスペインの二大巡礼地に数えられるに至った。1409年に、教皇ベネディクト13世により、独立した修道院として認められたモンセラート修道院は、カタルーニャ地方の宗教文化の中心でもあり、1499年にはスペインで最初の印刷機が導入された。イエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラなども、1522年にモンセラート修道院に滞在した記録が残されている。1592年にはバシリカ聖堂が献堂されたが、1811年、1812年のナポレオン戦争では、モンセラート修道院は要塞化されたために略奪の対象となり、修道院の建物や貴重な古文書類も、放火により、ほぼ灰燼に帰した。
現在では、修道院の庭に残るサン・イスクラ礼拝堂以外の礼拝堂は失われたが、聖母像は、ナポレオン戦争中も山内に隠されたために難を逃れ、何度も修復を重ねながら、サンタ・マリア・モンセラート修道院付属大聖堂に祀られて、広く信仰を集め続けている。19世紀には、ラナシェンサと呼ばれるカタルーニャの文学・文化・政治復興運動との結びつきのもとに、モンセラート修道院が再建され、1880 年に修道院創立推定一千年祭が行われた。1881年には、教皇レオ 13 世より、モンセラートの聖母がカタルーニャの守護聖人に加えられ、聖母像が戴冠された。
モンセラートの聖母像は、モンセラートの聖母マリア信徒団に関する1223年の記録、聖母像の発見にまつわる伝承を記した1239年の古文書の存在などもあり、実際は12世紀から13世紀頃の制作と考えられている。その黒褐色の外見から、ラ・モレネータ(la Moreneta, 黒い女の子)の愛称で親しまれているロマネスク様式の聖母像は、2000年代初頭の研究で、ポプラ材に施された塗料のニスが酸化した結果、元来は白かった木地が黒褐色に変色したものと結論づけられている。
しかし、ケルト系の影響が残るヨーロッパ中西部などを中心に、人為的に黒く彩色された聖母子像が450体あまり存在していることもあり、モンセラートの黒い聖母子像は、エジプトのイシスなど異教の地母神信仰がキリスト教の聖母マリア信仰と一体化したものではないかとする見解もある。モンセラートは、紀元前1世紀頃ケルト系民族が移動してきた土地でもあり、聖母像発見をめぐる伝承も、聖なるものは自然に宿るとして、大樹や巨岩、洞窟などを聖地として崇拝したケルトの古代信仰との関連を伺わせる要素を含んでいると言える。なお、モンセラートは、アーサー王の聖杯伝説にも登場する地として知られる。
本題の『モンセラートの朱い本』は、1811年のナポレオン戦争の前に、バルセロナの文学アカデミーに属するフランスのリオー侯爵(Marquis de Lio)がモンセラート修道院から借り出していたため焼失を免れた手写本で、19 世紀に赤いベルベットの装幀が施されたことからその名で呼ばれている。1862年にモンセラート修道院が再建された後、『モンセラートの朱い本』は、1885年にリオー侯爵の遺族によって修道院に返還された。
現在、モンセラート修道院の図書館に保管されている『モンセラートの朱い本』は、172頁のフォリオのうち32頁分が失われており、本来、収録されていたと見られる14曲中、現存しているのは10曲のみとなっている。これら10曲からなる歌曲集に収められているのは、主に聖地モンセラートを世に知らしめ、モンセラートの聖母を讃える内容の歌詞を持つ宗教的な作品で、13世紀から14世紀のスペインで作曲されたと思われるが、いずれも作者は不詳である。モンセラートの聖母の奇蹟を主題とする作品は、13世紀にカスティーリャ国王アルフォンソ10世(賢王)の編纂した『聖母マリアのカンティガ集』にも、5曲が収録されているが、こちらも同じく作者不詳である。
モンセラート修道院には、13世紀に創立された、ヨーロッパ最古の少年聖歌隊のひとつであるエスコラニア少年聖歌隊が併設されており、現在も全寮制の修道院付属校で学ぶ少年たちが典礼時に演奏活動を行っている。しかし、1399年頃に編纂されたとされる『モンセラートの朱い本』の特徴のひとつは、それが典礼用のものではなく、無名の編者が記しているように、モンセラート巡礼者たちが有名な黒い聖母像を讃え、聖堂の広場などで歌い踊るためのものであったことにある。
名高い巡礼地モンセラートには、スペインだけではなく、西欧、南欧の各地から、膨大な数の巡礼者が訪れたが、巡礼者たちは、最終目的地に到着した高揚感から聖堂やその周辺で聖地にふさわしからぬ世俗的な歌を歌ったり踊ったりする傾向があり、それが修道院側に問題視されたのである。そこで、モンセラート修道院では、巡礼者たちの歌ったり踊ったりしたいという欲求を禁じることなく、また、修道士たちの学究や祈りと瞑想の生活が巡礼者たちにより妨げられないように、聖地にふさわしい歌曲集を編纂して、巡礼者たちがお行儀よく敬虔な歌を口ずさむことができるようにした。そのため、この歌曲集には、宗教的な詩文に、主として14世紀の民謡や世俗曲のスタイルを取り入れた、素朴で力強く、美しい旋律を持った曲が収められることになった。『モンセラートの朱い本』の収録曲にはまた、賛歌の特徴が残されているほか、アルス・ノヴァの音楽やアラブ音楽からの影響が感じ取れるといわれる。
ほとんどの歌詞はラテン語で書かれているが、一部にカタルーニャ語とオック語が用いられている。多くの曲は単旋律歌曲であるが、2声から3声の多声曲もあり、『おお、輝く聖処女よ』、『処女なる御母を讃えん』、『笏杖もて輝ける御身』の3曲は、カノンとして歌うことができる。また、『あまねき天の女王よ』、『輝ける星よ』、『七つの喜び』の3曲は、輪になって踊ることを前提に作曲されたものと見られる。なお、『われら死をめざして走らん』については、イベリア半島東海岸にあるバレンシア州、モレリャのサン・フランシスコ修道院の参事会室のフレスコ画に描かれた、バレンシア語の歌詞、楽譜との一致が確認されている。
『モンセラートの朱い本』には、これまで複数の全曲録音があるが、その魅力的な歌曲のいくつかは単独でも頻繁に録音されている。


【歌詞】

◇『おお、輝く聖処女よ(O virgo splendens)』仮訳(英語訳より重訳)

O virgo splendens hic in monte celso
おお、燦然と輝く聖処女よ、この高き山の上に
Miracuulis serrato fulgentibus ubique
輝ける奇蹟とともにいまし
Quem fideles conscendunt universi.
数多の信者の登るところなり
Eya, pietatis oculo placato
ああ、御身の慈悲深き目で見そなわし給え
Cerne ligatos fune peccatorum;
罪の縄目に捕われし者たちを
Ne infernorum ictibus graventur
彼らを地獄の苦しみにより破滅させ給うことなかれ
Sed cum beatis tua prece vocentur.
御身のとりなしによりて、祝福されし者とともにあらしめ給え


【演奏の周辺】
アラ・フランチェスカは、1989年にアンサンブル・ジル・バンショワのメンバーによって設立された中世音楽アンサンブル。中心的なレパートリーは、イタリア・スペインの中世音楽である。アンサンブル・メンバーのエマニュエル・ボナルドは、オブシディエンヌ、ブリジット・レーヌは、女声アンサンブル、ディスカントゥスも主宰しており、いずれも高い評価を得ている。アラ・フランチェスカは、OPUS111のほか、現在Zig Zag-territoriesで録音を行っている。


【関連動画】
◆Alla francesca: O virgo splendens


◆Alla francesca: Stella splendens in monte


◆Alla francesca: Cuncti simus


◆Alla francesca: Laudemus virginem - Splendens ceptigera


◆Alla francesca: Mariam matrem virginem


◆Alla francesca: Ad mortem festinamus



【その他の録音】
◆Jordi Savall(dir.) Hesperion XX “Llibre Vermell de Montserrat. A fourteenth century pilgrimage” [VIRGIN VERITAS VER 5 61174-2] (1979)
◆Ensemble Unicorn “The black Madonna-Music from Llibre Vermell & Cantigas de Santa Maria” [NAXOS 8554256](1998)
◆Carles Magraner(dir.) Capella de Ministrers “Llibre Vermell de Montserrat” [LICANUS CDM-0201](2001)
◆Christophe Deslignes(dir.) Choeur de chambre de Namur, Psallentes, Les Pastoureaux, Millenarium “Llibre Vermell” [RICERCAR RIC 260] (2007)


【参考リンク】
◆『モンセラートの朱い本』写本画像
http://www.lluisvives.com/servlet/SirveObras/jlv/12037282889047518532735/index.htm
◆Choral Public Domain Library (ChoralWiki)
http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Llibre_Vermell_de_Montserrat
『モンセラートの朱い本』を含め、合唱音楽の楽譜を無料ダウンロードできるサイト(英語)

『ウェルガス写本』(SONY) [Codex]

■Codex Las Huelgas : Music from 13th Century Spain
Paul Van Nevel(dir.) Huelgas Ensemble [Sony Vivarte 53341](輸入盤)
SK53341f.JPG

【演奏】
パウル・ファン・ネーヴェル(指揮)
ウェルガス・アンサンブル

【曲目】
『ウェルガス写本』13世紀スペインの音楽
1. 『輝かしき血統より生まれし (Ex illustri nata prosapia)』
2. 『誰しも皆、十字架に懸からむ(Crucifigat omnes)』
3. 『おお、マリア、 海の星よ(O Maria maris stella)』
4. 『臨終の血より(Ex agone sanguinis)(器楽曲)』
5. 『あまねく知られたるベリアル(Belial vocatur)』
6. 『サンクトゥス(Sanctus)』
7. 『アニュス・デイ(Agnus Dei)』
8. 『ベネディカムス・ドミノ(Benedicamus Domino)』
9. 『南風は穏やかに吹く(Flavit auster)(器楽曲)』
10.『エーヤ・マーテル(Eya mater)』
11.『誰が我が頭を濡らすか(Quis dabit capiti)』
12.『汚れなきカトリック教徒よ(Casta catholica)』
13.『哀れなるひとよ(Homo miserabilis)』  

録音:1992年10月
ウェルガス・アンサンブル結成30周年記念ボックス[SONY 88697478442](2009)として再発売。また、法的な位置づけは不明ながら、アメリカのarkivmusicなどでは、reissue版も発売されている。Amazon.com(U.S.A)にも在庫がある模様である。
http://www.arkivmusic.com/classical/main.jsp

【作品の周辺】
ウェルガス写本は、スペイン北西部のブルゴスにあるシトー派の女子修道院、ラス・ウェルガス修道院に伝わる14世紀初頭の宗教歌曲集。ウェルガス写本は、1904年にベネディクト派の修道士らにより再発見され、14世紀の『聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)』、『モンセラートの朱い本(Llibre vermell de Montserrat)』等とともに、スペイン音楽史上、重要な位置を占めている。ウェルガス写本はまた、写本がつくられたその場所で現在まで保管がなされている稀有な事例として注目される。
シトー修道会の発展からはじめて、ラス・ウェルガス修道院の成り立ちを辿ってみると、1098年、モレームのロベール(Robert de Molesme, 1027-1111)は、奢侈に流れた既存の修道院のあり方に疑問を抱き、フランス、ディジョン近郊にシトー派の修道院を設立した。シトー修道会では、修道院の原点に立ち戻ることを理想に掲げ、聖ベネディクトの戒律を厳守することを第一義として、彫刻や美術による教示を含め、あらゆる虚飾を排する祈りと労働の修道生活を選んだ。シトー修道会の改革の精神は、建築様式や典礼ばかりでなく、音楽にも向けられ、グレゴリオ聖歌の源流を求めて、北フランスのメッツに写字生が派遣された。しかし、メッツから持ち帰られたグレゴリオ聖歌はシトー修道会の理想とは余りにもかけ離れたものであり、そこから新たにシトー修道会の聖歌がかたちづくられることとなった。
シトー修道会は、その修道規律改革に対する広汎な支持に加え、1115年に設立されたクレルヴォー修道院の初代院長ベルナールの功績もあり、12世紀末には、ヨーロッパの各地に修道院等の拠点を500か所以上持つ大修道会へと発展していった。シトー修道会は、最盛期には、ヨーロッパ全体でおよそ1800の修道院を有したとされる。
1187年に、カスティーリャ王アルフォンソ8世(在位:1158 -1214、高貴王)により創建されたラス・ウェルガス修道院は、1199年よりシトー修道会に属し、シトー派の最も有名な女子修道院のひとつに数えられている。ラス・ウェルガス修道院の建立されたブルゴスは、ローマ、イェルサレムと並び、キリスト教の三大聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼路にあたる。現在まで連綿として続いている聖地サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼は、9世紀に聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸の埋葬地が再発見されたことに始まり、12世紀には、年間巡礼者数が50万人を超えたと見られる。聖地サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼は、巡礼路沿いの教会の建立や巡礼者の宿場の整備を促進しただけでなく、12世紀のカリクトゥス写本(Codex Calixtinus)のように、初期多声音楽の発展の過程を示す重要な作品を誕生させる契機ともなった。
ラス・ウェルガス修道院は、カスティーリャ王家の保護のもとに、あらゆる収税権を免除され、カスティーリャ国王の戴冠式や王家の結婚式、条約の締結式等の舞台となったほか、アルフォンソ8世と王妃レオノールをはじめとする王家の墓所ともなった。『聖母マリアのカンティガ集』の編纂で名高いアルフォンソ10世(在位:1251-1282、賢王)の治世には、ラス・ウェルガス修道院は、ユダヤ教の学者やムデハル(レコンキスタ後もキリスト教への改宗を拒否し、キリスト教領土内に留まるムスリム等)も加わった一大文化拠点として栄えた。ラス・ウェルガス修道院では、13世紀半ばに、150人近い修道女が暮らし、女子聖歌隊もおよそ100人規模に達していたと見られる。ラス・ウェルガス修道院ではまた、プロの演奏家を招いた記録なども残されているようである。
ウェルガス写本は、14世紀初頭に編纂された羊皮紙の手書き写本で、加筆部分を含めて、編纂に合計12人が携わっていると見られるが、フランコの記譜法(定量記譜法)に基づく筆写譜の大半は、同一人物の手によるものである。ウェルガス写本には、フアン・ロドリゲス(Johan Rodrigues, Johannes Roderici )という人物の名前が数か所にわたって書き込まれており、いくつかの作品の作曲者と目されているが、作品の多くは作者不詳である。ウェルガス写本には、ラス・ウェルガス修道院の典礼用に独自に作曲された作品、スペインで作曲されたと思しき郷土色の濃い作品のほか、パリから伝承したノートルダム楽派の音楽も収録されており、13世紀末の作品を中心として、12世紀末から14世紀初頭までの音楽を俯瞰することができる。
ウェルガス写本におさめられた全186曲のうち、 45曲が単旋律歌曲で、141曲が二声から四声の多声楽曲(そのうち 1曲は無伴奏)である。ウェルガス写本は、アルス・アンティクワ(古技法)の音楽を収録した最末期の写本であると同時に、スペインにおける多声宗教曲の出現を示す貴重な資料と言える。また、シトー修道会の規則では多声楽曲を認めていなかったにもかかわらず、女子修道院での演奏を目的として修道女らが編纂したと見られるウェルガス写本において、多声楽曲が多数を占めている事実からは、シトー修道会の運営面での国・地域による違いのようなものが伺われ、興味深い。
ウェルガス写本は、女子修道院の写本という歴史的な背景を踏まえて、女声アンサンブルが演奏の中心となることもあり、清楚さ、繊細さと共に、アラブの影響を含めたスペインらしい魅力を湛えた録音が多いという点で、おおむね評価の一致が見られるようである。


【歌詞】

◆『輝かしき血統より生まれし(Ex illustri nata prosapia)』仮訳(英語訳より重訳)

Ex illustri nata prosapia
輝かしき血統より生まれし
Catherina candens ut lilium
聖カタリナは純白なること百合のごとく
Sponsa Christi lux in ecclesia
キリストの婚約者にして、教会を照らす光なり
Rosa rubens propter martirium
殉教により赤く染まりたる薔薇
Virgo vernans sed viri nescia
汚れを知らぬ処女は
Pellens a te viri consorcium
あらゆる求婚を退けたり
Te rogamus ut tua gracia
我らは聖女に恩寵を希わん
Roget illum cuius imperium
我らのため祈り、取次をなし給え
Sine fine regnat in secula
永久に天地を統べ給う天主よ
Quod det nobis celi palacium.
天の宮殿を我らに開き給えと
Ex illustri nata prosapia
輝かしき血統より生まれし
Catherina candens ut lilium
聖カタリナは純白なること百合のごとく
Et nobilis dono mundicie
気高く、天賦の美貌に恵まれり
Crystallina gemma lux virginum
透き通れる宝石、処女の光
Sponsa Christi et lux ecclesie
キリストの婚約者にして、教会を照らす光なり
Rosa rubens propter martirium
殉教により赤く染まりたる薔薇
Virgo fulgens et nobilissima
輝ける処女、崇高にして
Et devincens falsa sophismata
偽りの詭弁にも打ち勝てり
Bona docens et viri nescia
善とひとの純潔を教え給い
Fit residens in Dei Gloria.
神の栄光のうちにいます

【演奏の周辺】
ウェルガス・アンサンブルは、パウル・ファン・ネーヴェルにより、1971年に創立されたベルギーの声楽アンサンブル。その団体名は、スペインの『ウェルガス写本』に由来している。スイスのスコラ・カントルム・バジリエンシスでの結成当初は、現代音楽を専門としていたが、程なく中世、ルネサンス音楽に転じた。これまでに、ニコラ・ゴンベール(Nicolas Gombert, c.1495-c.1560)、クロード・ル・ジューヌ(Claude Le jeune, c.1530-1600)、ヨハネス・チコーニア(Johannes Ciconia, 1335-1411)、ピエール・ド・マンシクール(Pierre de Manchicourt,c.1510-1564.10.5)など多数の録音をSONY、Harmonia mundi Franceで行っており、受賞歴も数多い。
◆ウェルガス・アンサンブル公式サイト
http://www.huelgasensemble.be/


【その他の録音】
◆MEDIEVAL POLYPHONY Feminae Vox : Códice de las Huelgas
Carles Magraner (dir.) Capella de Ministrers [Licanus CDM 0826](2009)
◆Codex Las Huelgas 
Brigitte Lesne(dir.) Discantus [OPUS 111 30-68](現在、廃盤)


【参考サイト】
◆Choral Public Domain Library
http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Main_Page
合唱音楽の楽譜を無料ダウンロードできるサイト(英語)。『あまねく知られたるベリアル(Belial vocatur)』など、『ウェルガス写本』収録曲の一部について、掲載あり。
◆ラス・ウェルガス・サンタ・マリア・ラ・レアル修道院画像
Cistercian Royal Abbey of Santa María la Real de Las Huelgas
http://www.paradoxplace.com/Photo%20Pages/Spain/Camino_de_Santiago/Burgos/SM_Real_Huelgas/Huelgas_Nunnery.htm


【参考動画】
◆Capella de Ministrers:BELIAL VOCATUR


◆Discantus:Ave maris stella


共通テーマ:音楽

オケゲム『レクイエム』(Harmonia mundi) [Ockeghem]

■Ockeghem: Requiem
Marcel Pérès (dir.) Ensemble Organum [Harmonia mundi HMC901441](輸入盤)
HMC901441f.JPG

【演奏】
マルセル・ペレス(指揮)
アンサンブル・オルガヌム

【曲目】
ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, c.1410-1497)
『レクイエム』
録音:1992年11月、フォントヴロウ王立修道院
現在、上記盤は廃盤となり、2007年よりmusique d’abord盤[Harmonia mundi HMA1951441]として再発売されている。

【作曲者】
ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, c.1410- 1497.2.6)は、フランドル楽派初期の作曲家。同時代の作曲家の多くがそうであるように、オケゲムの生涯については、謎に包まれた部分が多く残されている。
1993年に発見された17世紀初頭の文書から、オケゲムは、ベルギー、モンス近郊のサン=ギラン生まれであることが明らかになった。しかし、オケゲムの生年については、Leeman Perkins のように1410年頃とする説から、PlamenacやRiemann and Van den Borrenのように1420年頃とする説、Fétisのように1430年頃とする説など諸説があり、依然として未確定のままである。オケゲムの生年を1410年頃とする説は、オケゲムがジル・バンショワ(Gilles Binchois, c.1400-1460.9.20)追悼のモテット(『死よ、そなたは矢で傷つけてしまった(Mort tu as navré de ton dart)』)を作曲し、その一節においてバンショワの従軍歴をほのめかしたことなどから、1419年にモンスの聖ヴォードリュー教会オルガニストに就任し、1423年にリールへと移るまで在職していたバンショワが幼少期のオケゲムと師弟関係にあったとする推察に基づくものである。オケゲムの生年を1410年頃とする説はまた、フランスの宮廷詩人クレタン(Guillaume Crétin, c.1460- 1525.11.30)がオケゲムの死に寄せた詩の一節(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)に根拠づけられており、オケゲムが90歳から100歳という高齢で亡くなったとの見方を示している。
オケゲムの幼少時のエピソードなどは伝わっていないが、モンスには、当時、教会に附属した音楽教育の場が二か所以上あり、オケゲムは、そのいずれかで学んだのではないかと推測されている。オケゲムに関する最初の記録は、1443年6月にアントワープのノートルダム大聖堂聖歌隊員に採用されたというもので、オケゲムも当時の慣例に倣って、聖歌隊から音楽活動をスタートさせたと見られる。オケゲムは、1446-48年の間、フランスのムーランで、ブルボン公シャルル1世に礼拝堂歌手として仕えた。1451年には、フランス国王シャルル7世(在位:1422-1461)の王室礼拝堂歌手としてオケゲムの名前が記載されており、1450年から1452年頃の間にパリに移ったと見られる。オケゲムは、1453年までに王室礼拝堂楽長職に任ぜられ、作曲家として活動を行った。オケゲムはまた、1456年から1459年の間にロワール河流域の都市トゥールのサン・マルタン修道院の財務官に推され、1470年にパリのサン・ブノワ教会に転じるまでその地位にあった。サン・マルタン修道院は、10世紀以来、歴代のフランス国王が修道院長を務めるなど格式の高さを誇り、その財務官の職位は、更なる経済的安定をオケゲムにもたらした。教会付き司祭の年俸がおよそ150から180リーヴルの時代に、オケゲムの総年収はおよそ 950リーヴルにのぼったとの推計もあり、オケゲムがフランス宮廷において、いかに厚遇を受けた音楽家であったかが伺われる。
オケゲムは、1461年7 月にシャルル7世が逝去した後も、ルイ11世(在位:1461-1483)、シャルル8世(在位:1483-1498)と三代のフランス国王に仕え、王室礼拝堂楽長として、職務を果たした。オケゲムは、1461年に、サン・マルタン修道院の財務官のトゥール在住義務から解放された後、1463年から1470年の間、パリのノートルダム大聖堂参事会員をも兼務している。また、オケゲムは、1462年と 1464年にルネサンス音楽を開拓したブルゴーニュ楽派の巨匠ギヨーム・デュファイ(Guillaume Dufay,c.1400-1474.11.27)の家をカンブレに訪れたと見られる。
1470年には、オケゲムは、王室礼拝堂の歌手らとともに、フランス国王ルイ11世の外交使節団に加わり、スペインを訪れた。このときのオケゲムの使命は、高名な作曲家としての文化交流活動のみならず、スペインを説得して、イングランドとブルゴーニュが結んだ対フランス同盟への加盟を阻止し、ギュイエンヌ公シャルル (ルイ11世の兄弟)とカスティーリャ王女イサベルの結婚の交渉をすすめることにあったとされる。オケゲムは、1471年に宮廷に献上する音楽書の監修を行ったが、残念ながら、現在では、完全に失われてしまっている。
1483年のルイ11世逝去後のオケゲムの動向についてはあまり知られていないが、1484年8月には、フランスの宮廷外交に関わり、ベルギーのブルージュとダンメを訪れた。また、1488年には、オケゲムが聖木曜日の洗足の儀式に参列したことが宮廷の記録から明らかになっている。オケゲムは、かなりの高齢で亡くなったという記録が残されていることから、晩年は引退生活を送り、遺書を作成したトゥールの地で、1497年2月6日に世を去ったと見られる。
詩人のクレタンは、「師であり良き父」であったオケゲムを追悼して、その美声と卓越した作曲技法、親切、寛大にして誠実で、敬虔な人柄などを讃えた。クレタンはまた、アレクサンダー・アグリコラ(Alexander Agricola,1446-1506)、アントワーヌ・ブリュメル(Antoine Brumel, c.1460-c.1520)、ロワセ・コンペール(Loyset Compere, c.1450-1518)ら、当時の著名な作曲家たちに追悼を呼びかけ、ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez, c.1440-1521.8.27)が、詩人ジャン・モリネ(Jean Molinet, 1435-1507.8.23)の「森の精霊たちよ(Nimphes des bois)」をテキストに『オケゲムの死を悼む挽歌 (La déploration de la mort de Johannes Ockeghem)』を作曲した。詩中にジョスカン・デ・プレ、 ブリュメル、ピエール・ド・ラ=リュー(Pierre de La Rue, c.1460-1518.11.20)、コンペールの名前が織り込まれたこの挽歌では、定旋律にグレゴリオ聖歌の死者のためのミサ曲の旋律が用いられ、ジョスカン・デ・プレ作品のなかでも最も哀切で美しいもののひとつとなっている。


【作品の周辺】
オケゲムは、しばしば、ギヨーム・デュファイと次世代のジョスカン・デ・プレの間で、最も重要な作曲家と見なされている。しかし、オケゲムは、失われた作品もあるとはいえ、寡作な作曲家で、現存する作品はミサ曲(10曲)及びその断章、モテット(9曲)、シャンソン(22曲)等に限られている。オケゲムの代表作としては、『ミサ・プロラツィオーヌム(Missa Prolationum)』、『ミサ・クィユヴィス・トニ(Missa cuiusvis toni)』、『レクイエム』等があげられる。オケゲムのミサ曲のほとんどは、現在ヴァチカン図書館に所蔵されているキージ写本(Chigi codex, 15世紀末から16世紀初頭に成立)により伝承されたものであるが、大半の作品については、作曲年代や作曲の背景等も未確認のままとなっている。また、ルイ11世のフランス王位継承に際して作曲されたと見られる“Resjois toi terre de France”のように、作曲様式の観点から、オケゲム作の可能性が高いとされる作品も数曲ある。
オケゲムと面識があったと見られる作曲家のひとり、アントワーヌ・ビュノワ(Antoine Busnoy, c1430-1492)は、1460年代にオケゲムに捧げるモテット(In hydraulis)を作曲し、その楽才を讃えるとともに、ピタゴラスの後継者として、その名をあげた。オケゲムは、サン・マルタン修道院の財務官を務めた経歴の持ち主だけに、数学、幾何学、天文学等にも造詣が深かったようである。オケゲムの音楽に対しては、実演に接する機会のなかった18世紀の音楽学者から、数理的だが音楽性に欠けると否定的な評価がなされたこともあるが、19世紀以降に再評価が進み、現在では、数理と音楽性が相反しないことを証明する優れた演奏が数多く登場している。
オケゲムの音楽的な特徴のひとつは、ポリフォニー各声部の旋律、リズムを自立させながら、各声部が際立つよう緻密な計算がなされていることにある。高度な作曲技法が駆使されてはいるが、実際に聴いてみて息の詰まるようなところはなく、透明感さえ感じさせるその音楽は非常に美しい。また、オケゲム自身がバス歌手として著名な存在であったことから、バスの旋律線がより複雑であることも特徴に加えられる。
『レクイエム』とは、死者が最後の審判で罪を赦され、天国で安息を与えられるよう祈る死者のためのミサ(Missa pro Defunctis)で用いられる聖歌、または、死者のためのミサから曲想を得た楽曲を指し、死者のためのミサ曲とも訳される。レクイエムの呼び名は、その入祭唱が「永遠の安息を(Requiem eternam)」で始まることに由来している。
オケゲムの『レクイエム』は、典礼文がポリフォニーで作曲された、現存する最古の作品として有名で、1461年7月のシャルル7世の葬儀のために作曲され、1483年のルイ11世の葬儀でも演奏されたのではないかと考えられている。ただし、オケゲムが『レクイエム』を作曲した時代には、死者のためのミサの形式自体が統一されていなかったこともあり、オケゲムの作品は、現行のものとはかなり形式的に異なっている。オケゲムは、入祭唱、キリエ、昇階唱、詠唱、奉献唱に付曲しており、最上声部にグレゴリオ聖歌の旋律を原則として用い、二声から四声のポリフォニーを展開しているが、バロック以降とは反対に、感情表現や描写性を極力抑えたルネサンス期のレクイエムらしく、ある意味、深遠にして、厳格さをも感じさせる作品である。


【歌詞】

オケゲム『レクイエム』(Missa pro defunctis)仮訳(英語より重訳、新共同訳他参照)

[1] Introitus(入祭唱)
Requiem eternam dona eis Domine:
主よ、永遠の安息を彼らに与え
et lux perpetua luceat eis.
絶えざる光で照らし給え
Psaume : Te decet hymnus Deus in Sion,
詩編: 神よ、シオンではあなたに賛歌が捧げられ、
et tibi reddetur votum in Jerusalem:
エルサレムでは誓いが果たされましょう
exaudi orationem meam, ad te omnis caro veniet.
我が祈りを聞き届け給え、 全ての肉体はあなたのもとにかえりましょう
Requiem eternam dona eis Domine:
主よ、永遠の安息を彼らに与え
et lux perpetua luceat eis.
絶えざる光で照らし給え

[2] Kyrie(キリエ)
Kyrie eleison.
主よ、憐れみ給え
Christe eleison.
キリストよ、憐れみ給え
Kyrie eleison.
主よ、憐れみ給え

[3]Epistola(使徒書簡朗読)[省略]

[4]Graduale (昇階唱)
Si ambulem in medio umbre mortis
たとえ死の影の谷を歩むとも
non timebo mala quoniam tu mecum es, Domine.
我は災いを恐れじ 主の我とともにいますゆえに
Verset: Virgo tua et baculus tuus ipsa me consolata sunt
唱句: あなたの鞭、あなたの杖 それが我が慰め

[5] Tractus (詠唱)
I. Sicut servus desiderat ad fontes aquarum,
涸れた谷に鹿が泉の水を求め、喘ぐように
ita desiderat anima mea ad te Deus.
神よ 我が魂はあなたを求め
II. Sitivit anima mea ad Deum vivum :
神に、命の神に、我が魂は渇く
Quando veniam et apparebo ante faciem Dei mei?
いつ御前に出て 神のご尊顔を拝せるのか
III. Fuerunt mihi lacrime mee panes die ac nocte,
昼も夜も、我が糧は涙ばかり
dum dicitur mihi per singulos dies:
ひとびとは絶えず問えり
IV. Ubi erat Deus tuus?
おまえの神はどこにいるのか

[6]Evangelium(福音書朗読) [省略]

[7]Offertrium(奉献唱)
Domine Iesu Christe, Rex glorie,
主イエス・キリストよ、栄光の王よ、
libera animas omnium fidelium defunctorum de pœnis inferni, et de profundo lacu :
全ての死せる信者の魂を 地獄の罰と深淵より救い給え
libera eas de ore leonis, ne absorbeat eas tartarus, ne cadant in obscurum :
彼らの魂を獅子の口より救い給え 彼らが冥府に飲み込まれぬよう、暗黒に堕ちぬように
Sed signifer sanctus Michael representet eas in lucem sanctam.
旗手、聖ミカエルが彼らの魂を聖なる光へと導きますように
Quam olim Abrahe promisisti et semini eius.
かつてあなたがアブラハムとその子孫に約束したように
Verset : Hostias et preces tibi Domine offerimus:
唱句:主よ、あなたに我らは 賛美の生け贄と祈りを捧ぐ:
tu suscipe pro animabus illis,
彼らの魂のために受け給え
quarum hodie memoriam agimus:
今日、我らが追悼するその魂のために:
fac eas, Domine, de morte transire ad vitam.  
主よ、彼らの魂を死から生へと移し給え
Quam olim Abrahe promisisti et semini eius.
かつてあなたがアブラハムとその子孫に約束したように

[8]Praefatio(叙唱) [省略]

[9] Sanctus(サンクトゥス、三聖唱)[省略]

[10]Agnus Dei(平和の賛歌、神羔唱)[省略]

[11]Communio(聖体拝領唱) [省略]

[12]Responsorium(赦祷文)[省略]


【演奏の周辺】
マルセル・ペレスは、1956年7月15日、アルジェリア生まれの音楽学者、作曲家、指揮者。14歳でニースのアングリカン教会オルガニストを務め、ニースの音楽院でオルガンと作曲を学んだ後、ロンドンのRoyal School of Church Music及びカナダ、モントリオールのStudio of Ancient Musicに留学し、1979年にフランスに帰国した。
アンサンブル・オルガヌムは、1982年にペレスにより設立された中世音楽アンサンブルで、これまでにシトー修道会の聖歌やノートルダム楽派、マショー、ジョスカン・デ・プレ、オケゲム等の録音を行い、注目されている。アンサンブル・オルガヌムには、フランス人のほか、レバノンの修道女やコルシカ島の聖歌隊歌手がメンバーとして加わることもあり、多士済々である。アンサンブル・オルガヌムは、聖歌から宗教劇にレパートリーを広げ、作曲当時の演奏空間を復元する手法で演奏を行っているが、その演奏は、ときに前衛的、呪術的と評されるなど、評価面では賛否両論が見られる。アンサンブル・オルガヌムはまた、古楽界で来日公演が実現しない最後の大物アンサンブルのひとつでもある。
Harmonia mundi franceのほか、AMBROISIEなどのレーベルでも録音を行っている。


【関連動画】
◆Ensemble Organum: Ockeghem Requiem Introitus



【その他の録音】
◆J.Ockeghem: Missa pro Defunctis, Missa Mimi, etc
Paul Hillier(dir.) Hilliard Ensemble[Virgin Classics VBS6284922]
◆Johannes Ockeghem : Requiem, Missa Fors Seulement etc.
Edward Wickham(dir.) The Clerks’ Group [ASV CD GAU 168]


【参考文献等】
◆LEEMAN L. PERKINS, “Ockeghem [Okeghem, Hocquegam, Okegus etc.], Jean de [Johannes, Jehan]” 
(資料出所: http://www.law-guy.com/dummygod/Entries/S20248.htm)


【参考サイト】
◆Choral Public Domain Library 
 http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Main_Page
 オケゲム『レクイエム』を含む、合唱音楽の楽譜を無料ダウンロードできるサイト(英語)
◆Requiem Survey
 http://www.requiemsurvey.org/
 レクイエム(死者のためのミサ曲)に関するデータベース(英語)


共通テーマ:音楽

シャルパンティエ『テ・デウム』(Harmonia mundi) [Charpentier]

Marc-Antoine Charpentier:Te Deum, Missa Assumpta est Maria, Litanies de la Vierge
William Christie(dir.) Les Arts Florissants
Harmonia mundi france [CD:HMC 901298]

HMC901298f.JPG

【演奏】
ウィリアム・クリスティ指揮
レザール・フロリサン

【曲目】
マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643-1704)
・『テ・デウム(Te Deum)』(H.146)
・『聖母被昇天のミサ曲(Missa Assumpta est Maria)』(H.11)
・『聖母マリアへの連祷(Litanies de la Vierge』(H.83)
録音:1988年10月、パリ、ノートルダム・ドゥ・トラヴァーユ教会。
現在、上記盤はHarmonia mundi 社のカタログには掲載されていないが、SACD:HMC 801298, Gold Edition HMG501298として再発売されている。

【作曲者】
マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643-1704.2.24)は、フランスのバロック盛期を代表する作曲家のひとりである。シャルパンティエの活躍したルイ14世(Louis XIV, 1638.9.5-1715.9.1)治世下のフランスでは、音楽家がこぞって立身出世を求め宮廷に接近する風潮が見られ、ルイ14世の寵愛を受け、宮廷楽長を務めたジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully, 1632.11.28-1687.3.22)などは大いに権勢をふるった。シャルパンティエは、王室所属の音楽家でこそなかったものの、非常に多作であると同時に、宗教曲から世俗歌曲、歌劇に至る作品の多様性と、その洗練された作風によって知られた作曲家で、パリで教会付音楽家として重要なポストを歴任するなど、生前からリュリに勝るとも劣らぬ名声を得ていた。しかし、リュリがシャルパンティエに対する敵愾心から行ったとされる様々な妨害工作のためもあって、シャルパンティエの宮廷内での活動は限られたものであった。
シャルパンティエ再評価の機運が高まった契機としては、1727年に王立図書館がシャルパンティエの相続人から購入し、現在フランス国立図書館に所蔵されているシャルパンティエの550曲に及ぶ自筆譜(全28巻)が20世紀になって再発見されたことがあげられる。1982年、アメリカの音楽学者ヒュー・ウィリー・ヒッチコック(Hugh Wiley Hitchcock,1923.9.28-2007.12.5)が、これらの自筆譜をもとに作成したシャルパンティエの作品目録を出版したことから、シャルパンティエ作品はヒッチコック番号(H)をもって整理されるようになった。しかし、シャルパンティエの生涯については、いまだに不明の点が多く残されている。
最近の研究によれば、マルク=アントワーヌ(実際の発音は、マルカントワーヌに近い)・シャルパンティエは、1643年にパリ司教区に生まれた。シャルパンティエ家は、数世代前からパリ近郊のモーに居住していたことが確認されており、父ルイは書記官を務めていた。シャルパンティエには、エティエネット、マリー、エリザベトの3姉妹がおり、兄弟アルマン=ジャンが父の後を継いだ。シャルパンティエ自身は、18歳のとき、パリの法律学校に登録したが、僅か1学期で退学し、1662-69年の間の2、3年、ローマに留学したとされる。シャルパンティエは、ローマのフランス大使館で活動していた詩人、音楽家のシャルル・コワポー・ダスーシ(Charles Coypeau d'Assoucy,1605.10.16-1677.10.29)と、この頃に接触があったと見られている。一説には、シャルパンティエは、画家を志して留学したローマで、オラトリオの創始者として名高い作曲家、ジャコモ・カリッシミ(Giacomo Carissimi, 1605.4.18受洗-1674.1.12)と出会い、その楽才を見出されたとも言われているが、それを裏づけるに足る充分な史料は見つかっていない。シャルパンティエは、イエズス会修道士学校コレッジォ・ジェルマニコにおいて、カリッシミに師事した可能性が高いと見られるが、事実として確認できるのは、フランス国立図書館所蔵のシャルパンティエ自筆譜が美しいつる草文様で巧みに彩られていることと、同時代のイタリアの音楽様式をフランスに持ち帰ったことのみである。
シャルパンティエは、ローマ留学を終え、パリに戻ると、1670年頃からギーズ公女マリー・ド・ロレーヌ(Marie de Lorraine, Duchess of Guise, “Mademoiselle de Guise”, 1615.8.15-1688.3.3)に作曲家、コントル=テノール(カウンターテナー)歌手として仕えた。そして、1688年にパトロンであるギーズ公女が他界するまで、詩篇唱、モテット、マニフィカト、ミサ曲及びギーズ公女の甥にあたるギーズ公ルイ・ジョセフの葬送のための音楽などの宗教曲、カンタータなどの世俗歌曲、牧歌劇、器楽曲等を多数作曲した。ギーズ公女のイタリア趣味を反映して、イタリア風のラテン語オラトリオや、シャルパンティエ自身がair sérieuxあるいはair à boireと呼んだフランス語の小品、その他分類しにくい小品も作曲された。シャルパンティエは、ギーズ公女に仕えるかたわら、ルイ14世の従姉妹で、ギーズ公ルイ・ジョセフ妃であった、ギーズ公爵夫人エリザベト・ドルレアン(Élisabeth Marguerite(Isabelle) d'Orléans, “Madame de Guise”, 1646.12.26-1696.3.17)や外部からの依頼にも応えるかたちで作曲活動を行った。
シャルパンティエの作曲活動上で特筆されることとしては、シャルパンティエが有名な劇作家モリエール(Molière,1622.1.15-1673.2.17)の国王の劇団(後のコメディ・フランセーズ)の音楽監督に抜擢されたことがある。モリエールは、1664年以来、ジャン=バティスト・リュリと協力して、コメディ=バレ(舞踊喜劇)の代表作である『強制結婚(Le Mariage forcé)』(1664)、『町人貴族(Le Bourgeois gentilhomme)』(1670)等で大成功をおさめていたが、1670年頃から、パレ・ロワイヤル座上演時の支払いをめぐってリュリと不和となり、訣別したのである。モリエールは、シャルパンティエをリュリの後任に迎え、1672年7月のパレ・ロワイヤル座の舞台向けに『強制結婚』及び『エスカルバニャス伯爵夫人(La Comtesse d'Escarbagnas)』の幕間音楽を新たに依頼した。ギーズ公女、ギーズ公爵夫人のあと押しもあって、1673年2月には、『病は気から(Le Malade imaginaire)』(1673)で、作曲者候補と目されていたダスーシを退け、モリエールとシャルパンティエの合作が実現した。1673年、『病は気から』の上演4日目にモリエールが急死したことから、モリエールとシャルパンティエの協力関係は短期間のうちに終わり、コメディ=バレの試みも終焉を迎えた。シャルパンティエは、モリエール亡き後も劇団との関係を保ち、ジャン・ドノー・ド・ヴィゼ(Jean Donneau de Visé,1638-1710)やトマ・コルネイユ(Thomas Corneille,1625-1709)らの劇作家と協力し、作曲活動を行った。
しかし、リュリが、1672年に王立音楽アカデミー(後のオペラ座)の上演権を買い取り、歌劇の上演に取り組み始め、音楽悲劇(抒情悲劇)と呼ばれるフランス歌劇の流れを確立した。リュリがモリエール没後にパレ・ロワイヤル座の興行権を取得し、王立音楽アカデミーの活動の場としたこともあり、リュリの3作目の歌劇『テゼ(Thésée)』 (1675)以降は、宮廷での初演後、パリの劇場で歌劇を一般に公開することが慣例となった。リュリはまた、他劇団に踊り手の出演を禁じ、舞台に起用できる音楽家数を制限するなどして上演を独占したため、次第にリュリの規定人員を上回る音楽家を起用するようになったシャルパンティエは、1685年に規定違反を問われ、座付音楽家としての活動を断念するに至った。
その一方で、シャルパンティエは、1679年から1680年代初頭にかけて、王太子ルイ付きの音楽家を務め、主に王太子の礼拝堂のための宗教曲を作曲した。シャルパンティエは、1683年に王室礼拝堂副楽長職に出願しながら、病気のため、最終選考時点で辞退せざるを得なかったが、翌1684年に、パリにおけるイエズス会の拠点であるサン=ルイ教会楽長に就任した。
シャルパンティエはまた、王太子ルイ付きの音楽家を務めていた1682年に、ヴェルサイユ宮殿にあるルイ14世のアパルトマンで、歌劇(ディヴェルティスマン)『ヴェルサイユの愉しみ(Les plaisirs de Versailles)』(H.480)を上演した。1686年には、歌劇『オルフェウスの冥府下り(La Descente d'Orphee aux Enfers)』(H.488)が、王太子ルイのアパルトマン、もしくは、フォンテーヌブロー宮殿で上演された。リュリが歌劇をはじめ音楽劇に関する一切の権利を独占していた状況の下で、宮廷やその周辺で、ギーズ家の音楽家によるシャルパンティエの歌劇上演が許されたのは、ギーズ公爵夫人の庇護によるところが大きかったためと考えられる。ギーズ公爵夫人は、1684-1687年にも、冬の王宮の愉しみとして、フランス語歌劇、牧歌劇等の上演に尽力し、パリの自邸でも上演の機会を設けていたのである。
1687年にリュリが亡くなった直後に、イエズス会に奉職中のシャルパンティエは、宗教的歌劇『ダヴィデとヨナタン(David et Jonathas)』(H.490) (1688)を作曲し、王立音楽アカデミーにより独占されていた歌劇の上演慣行に抗して、イエズス会系コレージュで上演を行った。シャルパンティエはまた、1693年12月4日に、トマ・コルネイユ台本に基づく王立音楽アカデミーのための唯一の音楽悲劇(抒情悲劇)『メデ( Medee)』(H.491)を初演し、同時代人である音楽家、セバスチャン・ド・ブロサール(Sébastien de Brossard,1655.9.12-1730.4.10)等からも好意的に迎えられた。シャルパンティエは、ギーズ家の音楽家のひとりであったエティエンヌ・ルリエ(Étienne Loulié)の後を引き継ぎ、1692年から、ルイ14世の甥で、ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップの音楽教師を務め、作曲法と通奏低音に関する書物を著しており、『メデ』はオルレアン公フィリップとの緊密な関係から生み出されたとする見方もある。
さらにシャルパンティエは、1698年にパリの王室ゆかりの教会、サント・シャペル楽長に任命され、1704年に亡くなるまでその職にあった。シャルパンティエが任期中に作曲した主要な作品には、『聖母被昇天ミサ曲(Mass Assumpta Est Maria)』(H 11)(c.1699)、オラトリオ『ソロモンの裁き(Judicium Salomonis)』(H 422)(1702)などがある。
シャルパンティエは、サント・シャペルの任期中にも宗教曲の傑作を残し、1704年2月24日にその生涯を閉じた。シャルパンティエの眠る墓地は、現在ではもはや跡形もないまでに破壊されているが、世界文化遺産パリのセーヌ河岸の一角を占めるサント・シャペルは、19世紀に修復され、ステンドグラスに往時の姿を偲ぶことができる。


【作品の周辺】
シャルパンティエは、多彩な作曲活動を展開したが、晩年には教会音楽の作曲に専念し、宗教曲を多く残した。現存するシャルパンティエ作品550曲のうち、ミサ曲12曲、オラトリオ35曲を含む400曲以上が宗教曲であることなどから、シャルパンティエは、17世紀フランスにおいて最大の宗教音楽作曲家と位置付けられている。
シャルパンティエの音楽の特徴としては、フランス・バロックの様式美をたたえ、複雑に絡み合う旋律の繊細優美さ、半音階等を大胆に用いた劇的な感情表現などが指摘されるが、『真夜中のミサ』(H9)(c.1690)等では、フランス民謡の旋律を多用した、親しみやすい作品づくりがなされていることも注目される。
『テ・デウム』は、ローマ・カトリック教会の賛歌(讃美歌)のひとつで、そのタイトルは、賛歌の冒頭の「Te Deum laudanus:我ら御身を讃え」に由来する。『テ・デウム』は、本来、感謝の賛歌として、主日(日曜日)及び祝日の聖務日課の朝課(朝の礼拝)等で、単旋律で歌われたが、16世紀以降は多声曲として作曲されるようになり、17-18世紀には、戦勝の祝典や、講和条約締結等の国家的行事、列聖式等で演奏される祝祭音楽の意味合いの強いものとなった。リュリ、シャルパンティエは、トランペット、ティンパニ等を伴う多声楽曲として『テ・デウム』を作曲しており、有名なところでは、ヘンデル、ハイドン、ベルリオーズ、ブルックナー、ヴェルディ等の作曲家も『テ・デウム』を作曲している。
シャルパンティエ作曲の『テ・デウム』には、(H.145)、(H.146)、(H.147)、(H.148)の4曲があるが、一般的には、『テ・デウムニ長調』(H.146)がシャルパンティエの代表作のひとつに数えられており、演奏、録音の機会も多い。『テ・デウムニ長調』(H.146)は、シャルパンティエがパリのサン=ルイ教会の楽長を務めていた1690年代初頭の作品と推定されているが、どのような機会に演奏されたのかについては、いぜん未確定のままである。
『テ・デウムニ長調』(H.146)は、独唱(8)、合唱(4)、トランペット、ティンパニ、木管楽器、弦楽器、通奏低音という編成で演奏され、シャルパンティエの作品の中でも最も豪華絢爛な作品である。特に、冒頭のトランペットによる前奏曲は、単独で演奏されることも多く、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート等でも取り上げられている。太陽王ルイ14世時代にふさわしい華やかさに溢れた作品でありながら、宗教曲らしい敬虔な祈りの表情が宿されているところがいかにもシャルパンティエらしい佳曲である。


【歌詞】

『テ・デウム(Te Deum)』仮訳(英語訳より重訳、公教会祈祷文等を参照)
 
Te Deum laudanus:
天主に在します御身を我ら讃え
Te Dominum confitemur.
主に在します御身を讃美し奉る。

Te aeternum Pater, omnis terra veneratur.
永遠の御父よ、全地は御身を拝み奉る。
Tibi omnes Angeli, tibi coeli et universae potestates:
全ての御使いら、全て天つ御国の民、万の力ある者、

Tibi Cherubim et Seraphim
ケルビムも、セラフィムも
incessabili voce proclamant:
絶え間なく 声高らかに御身が祝歌を歌い奉る。
Sanctus, Sanctus, Sanctus
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
Dominus Deus Sabaoth.
万軍の天主

Pleni sunt coeli et terra
天も地も
majestatis gloriae tuae.
御身の栄えと御霊威に充ち満てり。
 
Te gloriosus Apostolorum chorus
誉れに輝く使徒の群れ
Te Prophetarum laudabilis numerus:
誉め讃うべき預言者の集まり
Te Martyrum candidatus
潔き殉教者の一軍、皆諸共に
laudat exercitus.
御身を讃え

 
Te per orbem terrarum
聖会は
sancta confitetur Ecclesia.
全地に遍く、共に賛美し奉る
Patrem immensae majestatis.
御身、限りなき御いつの聖父を
Venerandum tuum verum et unicum Filium:
いと崇き御身がまことの御独り子と
Sanctum quoque Paraclitum Spiritum.
また慰め主なる聖霊と。
Tu Rex gloriae, Christe.
御身、栄えの大君なるキリストよ
Tu Patris sempiternus es Filius.
御身こそは、聖父の永久の聖子
Tu ad liberandum suscepturus
世を救うため 人とならんとて
hominem, non horruisti
いとわせ給わず
Virginis uterum.
おとめの胎をも

Tu devicto mortis aculeo,
死の棘に打ち勝ち、
aperuisti credentibus regna caelorum.
信ずる者のために天国を開き給えり

Tu ad dexteram Dei sedes
御身こそは、天主の右に坐し
in gloria Patris,
御父の御栄えのうちに
Judex crederis esse venturus.
裁き主として来りますと信ぜられ給う。

Te ergo quaesumus
願わくは
famulis tuis subveni,
僕らを助け給え。
quos pretioso sanguine redemisti.
贖い給いし尊き御血もて

Aeterna fac cum Sanctis tuis
彼らをして諸聖人と共に数えらるるを
in gloria numerari.
永遠の栄えのうちに得しめ給え
Salvum fac populum tuum Domine
主よ、御身の民を救い給え
et benedic hereditati tuae.
御身の世継ぎを祝し
Et rege eos, et extolle illos
彼らを治め、彼らを高め給え。
usque in aeternum.
永遠に至るまで。
Per singulos dies, benedicimus te.
日々、我ら、御身に謝し
Et laudamus nomen tuum in saeculum,
聖名を讃え奉る
et in saeculum saeculi.
世々に至るまで。
 
Dignare Domino die isto
主よ、今日
sine peccato nos custodire.
我らを護りて 罪を犯さざらしめ給え。
Miserere nostri Domine.
我らを憐れみ給え 主よ

Fiat misericordia tua Domine
御憐れみをたれ給え 主よ
super nos, quemadmodum speravimus in te.
御身に依り頼みし我らに。
 
In te Domine speravi:
主よ、我御身に依り頼みたり
non confundar in aeternum.
我が望みは永久に空しからまじ。


【演奏の周辺】
レザール・フロリサンは、1978年に、アメリカ生まれの指揮者ウィリアム・クリスティにより結成されたバロック・アンサンブル(声楽・器楽)。その演奏団体名は、M.A.シャルパンティエの牧歌劇『花咲ける芸術(Les Arts Florissants)』から名付けられた。クリスティは、バロック音楽の演奏法の革新をもたらし、バロック・オペラ復興に多大な貢献をしたことで知られ、シャルパンティエをはじめバロック音楽の演奏・録音には定評がある。クリスティは後進の育成にも熱心で、クリストフ・ルセやマルク・ミンコフスキなど、クリスティの下で学んだ数多い古楽演奏家の第一線での活躍ぶりは、「クリスティ星雲」のコピーを生んだ。クリスティとレザール・フロリサンは、日本にも数回来日しており、2002年8月には、東京日仏学院でウィリアム・クリスティを囲む会が開かれた。2003年2月には、ヘンデル『メサイア』全曲及びパーセル『妖精の女王』(抜粋)、J.P.ラモー(1683-1764)『優雅なインドの国々』(抜粋)がコンサート形式で披露された。また、2006年11月には、J.P.ラモーのオペラ『パラダン(遍歴騎士)』の舞台付き公演が行われている。
◆レザール・フロリサン公式サイト
 http://www.arts-florissants.com/

【関連動画】

◆レザール・フロリサン:シャルパンティエ『テ・デウム』より





【その他の録音】
◆Marc-Antoine Charpentier :Te Deum, Messe de minuit
Marc Minkowski(dir.) Les Musiciens du Louvre [DG Archiv 453479]
◆Marc-Antoine Charpentier :Te Deum,
Hervé Niquet(dir.) Le Concert Spirituel [Glossa classics GCD921603]


【参考文献】
・Catherine Cessac “Marc-Antoine Charpentier: un musicien retrouvé” , Fayard (1988)
・Catherine Cessac , E. Thomas Glasow (Translator) “Marc-Antoine Charpentier” Amadeus Press (1995)
・“H. Wiley Hitchcock: Pioneer in American music studies”THE INDEPENDENT, 13 December 2007.
http://www.independent.co.uk/news/obituaries/h-wiley-hitchcock-pioneer-in-american-music-studies-764841.html


【参考サイト】
◆IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー 
 http://imslp.org/wiki/
 シャルパンティエ『テ・デウム』を含め、クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。
 日本語解説あり。
◆Choral Public Domain Library  
 http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Main_Page
 シャルパンティエ『テ・デウム』など、パブリックドメインの合唱音楽の楽譜を無料でダウンロードできるサイト。
 PDFで提供されている楽譜は、8000曲以上(英語)

共通テーマ:音楽

ジャヌカン『鳥の歌』(Harmonia mundi) [Janequin]

■Ensemble Clément Janequin Clément Janequin: Le Chant des Oyseaulx
harmonia mundi france HMC 901099(輸入盤・廃盤)

HMC901099f.JPG


【演奏】
ドミニク・ヴィス指揮
クレマン・ジャヌカン・アンサンブル

ドミニク・ヴィス(CT)
ミッシェル・ラプレニー(T)
フィリップ・カントール(BR)
アントワーヌ・シコ(BS)
クロード・ドゥボーヴ(LUTE)

【曲目】
クレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, c.1485–c.1558)『鳥の歌』
1. 『鳥の歌:Le Chant des Oyseaulx』
2. 『夜ごとあなたは:Toutes les nuictz』
3. 『私は希望を持って時を待つ:J’atens le temps』
4. 『その昔、娘っ子が:Il estoit une fillette』
5. 『悲しいかな、それははっきりしたもの:Las on peult juger』
(ギヨーム・モルラーユのリュート編曲を含む)
6. 『ある日コランは:Ung jour Colin』
7. 『ああ、甘い眼差し、上品な言葉よ:O doulx regard, o parler』
8. 『ひばりの歌:Le chant de l’alouette』
9. 『もしもロワール河が逆流しても: Quand contremont verras』
10.『ああ、わが神よ、あなたの怒りは:Hellas mon Dieu ton ire』
11.『私の苦しみは深くない:Ma peine n’est pas grande』
12.『ああ、愛の苦しみよ:O mal d’aymer』
13.『草よ、花よ:Herbes et fleurs』
14.『盲目になった神は:L’aveuglé Dieu』
15.『この美しい5月に:A ce joly moys de may』
16.『満たされつつも:Assouvy suis』
17.『とある日、さるひとが私に言うに:Quelqu’un me disoit l’aultre jour』
18.『ある朝私はこれまでになく早く起き:M’y levay ung matin』
19.『私の愛しいひとは神の贈り物を授かっている:M’Amye a eu de Dieu』
20.『うぐいすの歌:Le chant du rossignol』

録音: 1982年7月、ラジオ・フランス106スタジオ。
ハルモニア・ムンディ社のカタログに長く掲載されていた上記のロングセラー盤は廃盤となり、2009年にXRCDとして復活した。

【作曲者】
クレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, c.1485–c.1558)は、フランスの聖職者、作曲家。ジャヌカンの前半生については不明の点が多いが、フランス中部シャテルローに生まれ、当時の慣例に倣って、シャテルローの教会で少年聖歌隊員となり、音楽教育を受けたと考えられている。史実として明らかなのは、1505年に、ボルドー司教総代理(1515年リュソン司教)であるランスロ・デュ・フォー(Lancelot du Fau)のもとでジャヌカンが聖職者見習いとなり、1523年あるいは1529年にランスロ・デュ・フォー司教が亡くなるまで、ボルドーの地で僧職についていたことである。
ジャヌカンは、ランスロ・デュ・フォー司教が亡くなった後、ボルドー近在の小さな教会の助任司祭等を転々としたと見られ、1534年にはアンジェ大聖堂付属聖歌隊の教師となり、聖歌隊員の指導にあたるかたわら、多数のシャンソンを作曲した。
この間、作曲家としては、1528年に、パリの楽譜出版業者ピエール・アテニャン(Pierre Attaignant)により、『鳥の歌』を含むジャヌカンの最初の作品集が出版された。また、1530年には、フランス国王フランソワ1世のボルドー訪問を歓迎して作曲された4声のシャンソン、『歌おう、鳴らそう、トランペットを(Chantons, sonnons, trompettes)』が出版された。1530年代以降もアテニャン等によりジャヌカンの作品集が出版されたことで、作曲家としての名声は高まったものの、1537年にはアンジェ大聖堂を離れざるを得なくなるなど、聖職者としては不遇で、生涯を通じて経済的困難に悩まされ続けた。ジャヌカンにはアンジェ在住の兄弟シモンがいたが、従兄弟からの借金を返済できなかったのが原因で諍いとなり、家族とは絶縁状態に陥ったと見られている。
アンジェ大聖堂の職を辞してからパリに移住するまでのジャヌカンの足取りについても、確かなことはわかっていないが、聖職者としてよりよいポストにつくため、アンジェまたはパリで学位取得を目指し大学に学んだ形跡があるようである。ジャヌカンは、1548年に詩人ピエール・ド・ロンサールの兄弟、シャルル・ド・ロンサールの助力を得て、ユンヴェールの助任司祭となり、1548年から1549年頃にパリに移住した。ジャヌカンがエラスムスやクレマン・マロ、ラブレーらのパトロンとして知られたロレーヌ枢機卿の庇護を受けたのも、この頃のことと推測されている。1550年あるいは1552年には、ジャヌカンは、ロレーヌ枢機卿の実兄で、ユグノー戦争においてカトリック勢力の中心であったギーズ公フランソワの礼拝堂楽長となった。
ジャヌカンは、1555年、フランス国王アンリ2世より王室礼拝堂の王室聖歌隊常任歌手に任ぜられ、1558年には国王の常任作曲家の称号を授与された。国王の常任作曲家の称号は、ピエール・サンドラン(Pierre Sandrin, c.1490–c.1561)に次ぐ史上二人目の栄誉であったが、フランスの宮廷によるジャヌカンの召し抱えは些か遅きに失したようである。1558年1月、ジャヌカンは、無報酬で身辺の世話をしていた家政婦と慈善事業とにそのわずかな財産を遺贈する内容の遺言書を作成しており、その後間もなく世を去ったと見られている。
ジャヌカンは、晩年、宗教曲の作曲に傾注し、プロテスタントであるカルヴァン派のメロディを取り入れたことが知られている。しかし、ジャヌカンの主要作品といえば、やはり『鳥の歌』に代表されるようなフランス語による世俗歌曲、シャンソンであり、残されたシャンソンは宗教曲を上回る250曲余に及んでいる。オノマトペ(擬音語、擬態語)を多用した描写的な音楽であるジャヌカンの作品は、フランス国外でも注目され、1547年頃にはニコラ・ゴンベール(Nicolas Gombert, c.1495-c.1560)の編曲とされる『鳥の歌』がアントワープで出版されている。ジャヌカンは、当時としても異色のキャリアをたどった人物であり、聖職者、宮廷作曲家として確固たる地位を築くには至らず、また、その死を悼む挽歌を作曲する者すらなかった。しかし、生前から単独の作品集が国内外で数回にわたり編集・出版され、同時代のフランスの詩人ジャン・アントワーヌ・ド・バイフ(Jean Antoine de Baïf,1532.2.19- 1589.9.19)が作品集に賛辞を寄せたことからも窺われるように、当時非常に人気のある作曲家のひとりであったと言える。

【作品の周辺】
クレマン・ジャヌカンは、16世紀フランス・ルネサンス最大のシャンソン作曲家であり、現存する作品には、ミサ曲2曲、モテトゥス1曲、宗教的シャンソン約120曲、世俗シャンソン約250曲などがある。聖職者、教会音楽家でありながら、その作品の多くを宗教曲ではなく世俗曲が占めるという作曲家のありようは、ジャヌカンのみならず、フランスの同時代人であるクロード・ド・セルミジ(Claude de Sermisy, c.1490-1562)や、ピエール・セルトン(Pierre Certon, ?-1572)等にも共通するものである。
中世からルネサンス期のイタリアで発展したイタリア語の世俗歌曲がマドリガーレ(マドリガル)と呼ばれるのに対して、フランドル地方を含むフランス語圏で発展したフランス語の世俗歌曲は、一般にシャンソンと呼ばれる。シャンソンは、11世紀頃に単旋律歌曲から発展したとされているが、ルネサンス期にフランドル楽派の影響を受け、次第にポリフォニックな傾向を強め、15世紀には3声、16世紀前半には4声の作品が多く見られるようになった。13世紀頃からは、バラード、ロンドー、ヴィルレの歌曲定型によるシャンソンが主流となり、15世紀には、ブルゴーニュ公国を中心に、宮廷風の愛を主題とした多声シャンソンや宗教的シャンソンが作曲された。
15世紀末頃からは、ロワゼ・コンペール (Loÿset Compère, c.1445-1518.8.16)や 、ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prez, c.1440- 1521.8.27)等によって、伝統的な歌曲定型を離れた、自由形式によるシャンソンが作曲されるようになった。16世紀前半には、ジョスカン・デ・プレの確立したとされる通模倣様式の作曲技法が広まるとともに、フランス語のイントネーションを音楽のリズムに生かし、拍子を頻繁に変化させるなどした、舞曲風の親しみやすい旋律を強調したシャンソンが作曲されるようになった。これらシャンソンは、教養ある宮廷人や上流階級向けに作曲されたものであったが、歌詞の内容には、当時台頭してきた市民階級の生活感情が多く反映され、軽妙洒脱で活気に満ち、ときに猥雑な庶民の生活を描写した作品や風刺的な作品も多く見られるようになった。16世紀後半には、詩人のクレマン・マロ、ピエール・ド・ロンサールらの格調高い詩に作曲した作品も多く見られるようになるが、ジャヌカンの作品は、パリのアテニャン等により出版されたことで、同時代の作曲家たちに大きな影響を与えた。
ジャヌカンの代表作のひとつである『鳥の歌』は、『狩り(La Chasse)』、『戦争 (La Guerre : La bataille de Marignan)』等とともに、1528年にアテニャンの出版した最初の作品集におさめられている。ジャヌカンは、シャンソンにおける描写にオノマトペ(擬音語、擬態語)を取り入れた作曲家のひとりであり、4声のシャンソン『鳥の歌』でも、オノマトペによって鳥のさえずりが表現されている。『鳥の歌』は、三大定型詩のひとつであるロンドーの詩形に則って、通模倣様式で作曲されており、鳥のさえずりを模した冒頭のモチーフの反復的な展開は、言外に性的な意味合いを含ませたものである。ニコラ・ゴンベール編曲とされる3声の『鳥の歌』には、ジャヌカンのオリジナル作品よりさらに技巧に洗練が加えられているが、ジャヌカン作品の魅力は、その擬音効果や巧妙な装飾、フランス語の抑揚を生かしたリズムなどの技巧面もさることながら、独特のユーモアとエスプリが自在に発揮されている点にある。また、ジャヌカンの作品には、『この美しい5月に』など抒情的で美しい小品も多く、『盲目になった神は』は、晩年にパロディ・ミサとして転用されている。


【歌詞】

◇『鳥の歌』仮訳(新倉俊一氏訳文、山崎庸一郎氏訳文等を参照)

Réveillez vous cueurs endormis,
さあ起きて、眠っている心よ
Le dieu d'amours vous sonne.
愛の神が呼んでいるよ

A ce premier jour de may
この5月の最初の日に
Oyseaulx feront merveilles.
鳥たちは素晴らしく歌うだろう
Pour vous mettre hors d'esmay,
あなたを悩みごとから解き放つために
Destoupez voz oreilles.
耳を澄ませてよくお聞き
Et farirariron ferely joly,
そらファリラリロン フェリリ ジョリ
Vous serez tous en joye mis,
みんな楽しくなるよ
Chacun s’i habandonne.
みんな大いにやってごらん


Vous orrez a mon advis
きっと聞こえるだろう
Une doulce musique,
甘くやさしい歌の調べが
Que fera le roy mauvis
ワキアカツグミの王様の 
D’une voix autentique.
真の歌声が
Ti ti pity, chou thi thouy
チィ チィ ピチィ シュ ティ トゥイ
Tu que dy tu, que dy tu
何を言ってるの、何のお話
Le petit sansonnet de Paris
パリのかわいいホシムクドリさん

Le petit mignon
かわいい雄鳥さん
Q’est la bas passe villain
あそこを通るのは誰だい、悪いやつ
Saincte teste Dieu.
聖なる神様の頭にかけて
Il est temps d’aller boyre
飲みに行く時間だよ
Guillemette Colinette,
ギユメット、コリネット
Sus, ma dama, a la messe Saincte Caquette qui caquette.
さあ、ご婦人、おしゃべりな聖カケットのミサに行きましょう 
Au Sermon ma maistresse,
お説教を聞きに、愛しいひとよ
A Saint Trotin voir Saint Robin,
聖ロバンに会いに聖トロタンへ
Monstrer le tétin le doulx musequin.
乳房を見せに、 やさしい音楽家さん


Rossignol du boys joly,
美しい森のうぐいす(小夜鳴き鳥)は
A qui la voix résonne,
その歌声を響かせる
Pour vous mettre hors d'ennuy,
あなたの物憂さを晴らすために
Vostre gorge jargonne.
あなたの喉はさえずり歌う

Frian frian frian…
フリァン フリァン フリァン…
Tar tar tar…tu velecy velecy
タル タル タル…トゥ ヴェルシィ ヴェルシィ
Ticun ticun …tu tu coqui coqui…
ティクン ティクン…トゥ トゥ コキィ コキィ…
Qui lara qui lara ferely fy fy
クィ ララ クィ ララ フルリ フィ フィ
Teo coqui coqui si ti si ti
テオ コキィ コキィ スィ チィ スィ チィ
Oy ty oy ty…trr. Tu
ウィ ティ ウィ ティ…トゥルル トゥ
Turri turri…qui lara
トゥリ トゥリ…クィ ララ
Huit huit…oy ty oy ty…teo teo teo…
フゥィ フゥィ…ウィ ティ ウィ ティ…テオ テオ テオ…
Tycun tycun…Et huit huit…qui lara
ティクン ティクン…エ フィ フィ…クィ ララ
Tar tar…Fouquet quibi quibi
タル タル…フゥケ クィビ クィビ
Frian…Fi ti…trr. Huit huit…
フリァン…フィ チィ…トルル フゥィ フゥィ…
Quio quio quio…velecy velecy
クィオ クィオ クィオ…ヴェルシィ ヴェルシィ
Turri turin…Tycun tycun ferely fi fi frr.
トゥリ トゥリ…ティクン ティクン フルリ フィ フィ フゥルル
Quibi quibi quilara trr…
クィビ クィビ クィララ トゥルル…
Turi turi frr…Turi turi vrr.
トゥリ トゥリ フルル…トゥリ トゥリ ヴルル
Fi ti Fi ti frr. Fouquet fouquet.
フィチィ フィチィ フルル フゥケ フゥケ

Fuiez regretz pleurs et souci,
消え去っておくれ、後悔、涙や心配ごとは
Car la saison est bonne.
だって季節がこんなにいいのだから


Arriere maistre coqu,
引っ込んでおいで、かっこうの旦那
Sortez de no chapitre,
わたしらの集まりから出てお行き
Chacun de vous est mal tenu
みんながあんたに気を悪くしてる
Car vous n'estes qu'un traistre.
だってあんたはただの裏切り者だからさ
Coqu, coqu, coqu…
かっこう、かっこう、かっこう…

Par trahison en chacun nid
騙して、ひとの巣に 
Pondez sans qu’on vous sonne.
誰にも呼ばれてないのに卵を産むんだから


Réveillez vous cueurs endormis,
さあ起きて、眠っている心よ
Le dieu d'amours vous sonne.
愛の神が呼んでいるよ


【演奏の周辺】
クレマン・ジャヌカン・アンサンブルは、1978年に、ドミニク・ヴィスにより結成されたフランスの声楽アンサンブル。男声合唱中心のアンサンブルで、何度かメンバーの交代を経つつ、クレマン・ジャヌカンはじめフランス・シャンソンの演奏、録音で高い評価を得ており、ディアパゾン・ドールなど受賞歴も数多い。主要なレパートリーは、イタリア、ドイツを含めたルネサンス期の世俗音楽および教会音楽である。
ドミニク・ヴィスは、パリ・ノートルダム大聖堂聖歌隊員を経て、ヴェルサイユ音楽院でオルガンとフルートを学んだ。カウンターテナーのアルフレッド・デラーに師事した後、1979年にレザール・フロリサンの結成に加わり、ウィリアム・クリスティのもとで研鑽を積んだ、いわゆる「クリスティ星雲」のひとりである。
ドミニク・ヴィスはバロック・オペラのカリスマ的なカウンターテナーとして人気が高く、日本でも頻繁に公演を行っている。また、ソロリサイタルでは、マショーからダウランド、シューベルト、マスネ、サティ、プーランク、ベリオ、武満徹に至るプログラムを披露するなど、近現代の音楽への取り組みにも意欲的である。


【関連動画】

◆アンサンブル・クレマン・ジャヌカン クレマン・ジャヌカン:『鳥の歌』



【参考サイト】
◆IMSLP ペトルッチ楽譜ライブラリー http://imslp.org/wiki/
クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。日本語解説あり.


共通テーマ:音楽

マショー『ノートルダム・ミサ』曲(Harmonic Records) [Machaut]

■Dominique Vellard(dir.) Ensemble Gilles Binchois:Guillaume de Machaut 《Messe de Notre-Dame》
HARMONIC RECORDS [H/CD 8931]

HCD8931f.JPG

【演奏】
ドミニク・ヴェラール指揮 アンサンブル・ジル・バンショワ

ミサ楽章;
アンドレアス・ショル(CT)
ゲルト・テュルク, エマニュエル・ボナルド(T)
ジャック・ボナ(B)

グレゴリオ聖歌&朗唱
ドミニク・ヴェラール, エルヴェ・ラミー(T)
フィリプ・バロワ(Br)
ヴィレム・デ・ヴァール,ジャック・ボナ(B)

【曲目】
ギヨーム・ド・マショー(Guillaume de Machaut, c.1300-1377)
『ノートルダム・ミサ』曲
グレゴリオ聖歌 イントロイトゥス
ガウデアームス・オムネス われらみな主において歓喜せん
キリエ
グローリア
朗唱:コレクツィオ 主は汝とともにあり
朗唱:エピストゥルム 智恵の書より朗読
グレゴリオ聖歌 グラドゥアーレ つねに真理によりて行い
グレゴリオ聖歌 アレルヤ マリアは昇りて天に迎え入れられん
朗唱:エヴァンジェリウム[福音書] イエスがある町に入り給いしとき
クレド
グレゴリオ聖歌 オフェルトリウム 祝福があなたの口より広められ
朗唱 プレファツィオ 永遠に
サンクトゥス
ベネディクトゥス
朗唱 天にまします我らの父よ
アニュス・デイ
朗唱 コンムニオ この世の女王
朗唱 ポストコンムニオ この祈祭に参ぜしのち
イテ・ミサ・エスト

現在は失われているランスのノートルダム大聖堂碑文を根拠に、聖母マリア昇天の祝日のミサを想定して、固有文を挿入した演奏。
録音:1990年9月、フランス、セーヌ-エ-マルヌ県シャンポーのサン=マルタン参事会教会。
Harmonic Recordsは、選曲と演奏、録音、ジャケット装丁全てにこだわったレーベルとして定評があったが、そのこだわりが諸費用の高騰を招いたといわれ、現在は活動を中止している。アンサンブル・ジル・バンショワの音源の一部は、スペインのCantusレーベルから再発売されたが、こちらも入手困難な状況が続いており、現在では、下記のサイトを含め、いくつかのサイトでダウンロード販売が利用できる。

http://www.micmacmusic.com/
http://www.classicjapan.net/

【作曲者】
ギヨーム・ド・マショー(Guillaume de Machaut, c.1300-1377.4.13)は、フランス、シャンパーニュ地方のランスもしくはその近郊に生まれた詩人、作曲家。貴族の出身であるマショーは、聖職者として教育を受けており、パリで学んだ可能性もあると考えられている。1335年に出された教皇ベネディクト12世(c.1285-1342.4.25)の大勅書により、マショーは、1323年頃からボヘミア王、ルクセンブルク伯ヨハン<盲目王>の秘書官として、ボヘミアはじめヨーロッパ各地に従軍したことが知られる。マショーは、ルクセンブルク伯ヨハンに仕える一方で、次第に詩作と作曲に力を注ぐようになったと見られ、1330年に、ヴェルダン、1332年にアラス、1333年にはサン=カンタンの司教座聖堂参事会員となった。さらに、1334年ないし1337年には、兄弟のジャンと同じく、歴代フランス国王の聖別戴冠式が行われたことで有名なランスのノートルダム大聖堂(司教座聖堂)参事会員となった。
百年戦争中の1346 年7月29日にクレシーの戦いでルクセンブルク伯ヨハンが戦没すると、その王女で、後のフランス国王ジャン2世<善良王>妃であるボンヌ・ド・リュクサンブールに仕えた。1349年、ペスト禍によりボンヌが亡くなった後は、ノルマンディー公シャルル(フランス王シャルル5世<賢明王>)、ブルゴーニュ公フィリップ<豪胆公>、華麗な時祷書で知られるベリー公ジャンなど、いずれもボンヌゆかりの王侯貴族に仕えた。マショーは、1340年以降、晩年までランスの地で過ごしたと見られ、死後は兄弟のジャンとともに、ノートルダム大聖堂で眠りについている。
マショーは、14世紀フランスにおいて最大の詩人および作曲家として知られ、詩作品ではボンヌの登場する『運命の癒薬』(Remède de Fortune,1341頃)、『獅子物語』(Dit du lyon,1342)、10代の少女ペロンヌ・ダルマンティエールとのプラトニックな恋を主題とした自伝的作品と言われる『真実の物語』(Le Voir Dit,1362-65)が特に有名で、ホイジンガの『中世の秋』にも引用された。イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, c.1343-1400.10.25)もまたマショーの詩作品に敬意をはらった人物のひとりと伝えられる。
マショーの代表作は『ノートルダム・ミサ』曲で、中世音楽のなかでも特に有名な曲である。1349年のペスト大流行後、マショー自ら音楽作品をいわゆる「マショー写本」に集大成したこともあって、現在残されているマショー作品は、ラテン語典礼文によるモテトゥスも含め、14世紀の作曲家では最多の140曲余りに及んでいる。ノートルダム大聖堂参事会員として聖職禄を受け、典礼時の音楽等を担っていたにもかかわらず、マショーの音楽作品には、宗教曲よりも、フォルム・フィクス(定型)に基づく世俗歌曲の方が多い。マショーの世俗歌曲には、トルヴェールの伝統を受け継ぎ、宮廷風の愛などを歌った単声のレー、ヴィルレや、多声のヴィルレ、ロンド、バラード等がある。マショーは1359-1360年のランス包囲戦の折に最後のモテトゥス三曲を作曲したとされるが、その音楽作品に世俗歌曲が多いのは、百年戦争の狭間に華開いた宮廷文化のなかで、王侯貴族から宮廷生活を謳歌するための世俗歌曲を求められたという事情による。マショーに対する後世の評価は、端的に言えば、詩作と作曲の両方で高い名声を得た最後の人物ということに尽きるといえ、マショー以降、詩人と音楽家は別々の道を歩むことになる。

【作品の周辺】
ローマ・カトリック教会の典礼は、「最後の晩餐」に由来するミサ(司祭がキリストの血と肉に聖変化させたパンと葡萄酒を信徒が拝領する儀式)、および、旧約聖書の詩篇などを唱える聖務日課に大別される。ローマ・カトリック教会では、教会の最初期から典礼に宗教音楽が組み込まれており、8世紀から10世紀頃にかけて、中東から西欧に至る広範な地域の聖歌の諸要素を取り入れたかたちで、単旋律、無伴奏のグレゴリオ聖歌が発展をみたと考えられている。グレゴリオ聖歌の名称は、典礼の整備や教会改革を行ったことでも知られる教皇グレゴリウス1世(c.540-604.3.12)が、聖歌の編纂を行ったと広く信じられていたことによる。
ローマ・カトリック教会の典礼では、当初もっぱら典礼文がグレゴリオ聖歌や単声による朗唱方式によって歌われた。ミサの典礼文には、復活祭やクリスマスなどの特定の礼拝に合わせてその都度変化する固有文と常に同一の式文である通常文があるが、14世紀以降には、(1)キリエ(Kyrie)、(2)グロリア(Gloria)、(3)クレド(Credo)、(4)サンクトゥス(Sanctus)、(5)ベネディクトゥス(Benedictus)、(6)アニュス・デイ(Agnus Dei)、(7)イテ・ミサ・エスト(Ite Missa Est)から成るミサ通常文楽章が、それぞれ単独の多声曲として作曲されることが一般的となった。さらに時代が下るにつれて、次第にグロリアとクレドなどのミサ通常文楽章を一対として扱う組ミサや、『トゥルネのミサ』や『バルセロナ・ミサ』のように、複数の作曲家によるミサ通常文楽章をキリエからアニュス・デイまで一曲ずつ集め、ミサ・サイクルとして整えた写本が現れるようになり、「ミサ曲」の概念が生まれるに至った。
ひとりの作曲家がミサ通常文楽章全てを作曲したものは、通作ミサ曲と呼ばれるが、1360年代前半の作曲とみられるマショーの『ノートルダム・ミサ』曲は、音楽史上、現存する最古の通作ミサ作品である。
14世紀のフランス音楽は、北フランス出身のフィリップ・ド・ヴィトリ(Philippe de Vitry, 1291-1361)の著した音楽理論書にちなんで、アルス・ノヴァの音楽と呼ばれている。四声で書かれたマショーの『ノートルダム・ミサ』曲は、まさにアルス・ノヴァの作曲技法による代表的な作品であり、ホケトゥスの技法や複雑なリズムの多用などの特徴がはっきりとあらわれている。
ホケトゥスとは、元来はしゃっくりを意味する言葉で、旋律を短い音符に細かく区切り、複数の歌手が一音一音交互に歌うことで、補完的にひとつのメロディーラインを編み出す奏法を指し、それがグレゴリオ聖歌とも、後に登場するフランドル楽派のミサ曲とも全く異なる、独特な響きを持った魅力的な音楽を生む要因となっている。

【歌詞】

◆ミサ曲通常文仮訳(英語訳より重訳、日本カトリック教会式文参照)

◇キリエ(Kyrie)
Kyrie eleison
主よ、憐れみ給え
Christe eleison
キリストよ、憐れみ給え
Kyrie eleison
主よ、憐れみ給え

◇グロリア(Gloria)
Gloria in excelsis Deo
天のいと高きところには神に栄光あれ
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis
地には善意の人に平和あれ
laudamus te
我らは主を誉め
benedicimus te
主を讃え
adoramus te
主を拝み
glorificamus te
主を崇め奉らん
gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam
主の大いなる栄光ゆえに 感謝し奉る
domine deus, rex caelestis, deus pater omnipotens
神なる主、天の王、全能の父なる神よ
domine fili unigenite ihesu christe
主のお独り子、イエス・キリストよ
domine deus agnus dei filius patris
神なる主、神の子羊、父の御子よ
qui tollis peccata mundいmiserere nobis
世の罪を除き給う主よ、我らを憐れみ給え
qui tollis peccata mundi suscipe deprecationem nostram
世の罪を除き給う主よ、我らの願いを聞き入れ給え
qui sedes ad dexteram patris miserere nobis
父の右に座し給う主よ、我らを憐れみ給え
quoniam tu solus sanctus
主のみ聖なり
tu solus dominus tu solus altissimus
主のみ王なり、主のみいと高き
ihesu christe
イエス・キリストよ
cum sancto spiritu in gloria dei patris
聖霊とともに 父なる神の栄光のうちに
Amen
アーメン

◇クレドCredo
Credo in unum deum
我は信ず 唯一の神
Patrem omnipotentem
全能の父
factorem celi et terre visibilium omnium et invisibilium
天と地、見えるもの、見えざるもの全ての造り主を
et in unum dominum ihesum christum
我は信ず 唯一の主 イエス・キリスト、
filium dei unigenitum
神のお独り子を
et ex patre natum ante omnia secula
世のすべてのものよりさきに父から生まれ
deum de deo lumen de lumine deum verum de deo vero
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神を
genitum non factum consubstantialem patri
造られずして生まれ、父と一体である
per quem omnia facta sunt
万物の造り主を
Qui propter nos homines
我ら人類のため
et propter nostram salutem descendit de celis
我らの救いのために 天より下り
et incarnatus est de spiritu sancto ex maria virgine
聖霊によりて 聖母マリアから御体を受け
et homo factus est
人となられし方を
crucifixus etiam pro nobis
我らのために十字架にかけられ
sub pontio pylato passus et sepultus est
ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、葬られ給えり
et resurrexit tertia die secundum scripturas
聖書に書かれた通り、三日目に蘇られ
et ascendit in celum: sedet ad dexteram patris
天に昇りて、父なる神の右に座し給えり
et iterum venturus est cum gloria
主は 栄光のうちに再び世に来られ
iudicare vivos et mortuos
生ける者と死せる者を裁き給う
cujus regni non erit finis
主の国は終わることなし
Et in spiritum sanctum dominum et vivificantem
我は信ず 主なる、生命の与え主たる精霊
qui ex patre filioque procedit
聖霊は 父と子より出で
qui cum patre et filio simul adoratur, et conglorificatur
父と子とともに、拝され、あがめられ
qui locutus est per prophetas
預言者により語られ給えり
et unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam
我は信ず 唯一の、聖なる、公の使徒継承の教会
confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum
我は罪の赦しとなる唯一の洗礼を認め
et exspecto resurrectionem mortuorum
死者の復活と
et vitam venturi seculi
来世の生命を待ち望まん
Amen
アーメン

◇サンクトゥスSanctus
Sanctus, sanctus, sanctus, dominus deus sabaoth
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主
Pleni sunt celi et terra gloria tua
天地は主の栄光に満てり
Osanna in excelsis
天のいと高きところにホザンナ
Benedictus qui venit in nomine domini
誉むべきかな、主の御名によって来たる者
Osanna in excelsis
天のいと高きところにホザンナ

◇アニュス・デイAgnus Dei
Agnus dei qui tollis peccata mundi miserere nobis
世の罪を除かれる神の子羊よ、我らを憐れみ給え
Agnus dei qui tollis peccata mundi: miserere nobis
世の罪を除かれる神の子羊よ 我らを憐れみ給え
Agnus dei qui tollis peccata mundi: dona nobis pacem
世の罪を除かれる神の子羊よ、我らに平安を与え給え

【演奏の周辺】
アンサンブル・ジル・バンショワは、1978年に創設された中世音楽アンサンブルで、線の細い、柔らかな発声を特徴としている。指揮者のドミニク・ヴェラール、ヴェラール夫人のアンヌ・マリー・ラブロードを中心に、エマニュエル・ボナルド、ブリジット・レーヌ(カウンター・テナーのジェラルド・レーヌの妹)などを加え、フランス文化省等の後援を受け、主にヨーロッパを中心に演奏活動を行っている。ドミニク・ヴェラールは1953年生まれで、ヴェルサイユ音楽院卒業後、1982年からスイスのバーゼル音楽院の古楽部門であるスコラ・カントルム・バジリエンシスで教鞭をとっているが、90年代以降はその教え子やフランス以外の国籍のアーティストが録音に参加する機会も増えている。録音は、HARMONIC RECORDS、Cantus以外に、Virgin Classics、Almaviva、Glossa等、多社にわたり、ヴェラール単独の録音も多い。


【関連動画】

◆ヴェラール指揮アンサンブル・ジル・バンショワ:マショー『ノートルダム・ミサ』曲


◆ヴェラール指揮アンサンブル・ジル・バンショワ:マショー『ノートルダム・ミサ』曲



【その他の録音】
◆Guillaume de Machault:La Messe de Nostre Dame, Songs from Le Voir Dit
Jeremy Summerly(dir) Oxford Camerata [NAXOS 8.553833]
◆Guillaume de Machault:La Messe de Notre Dame
  Marcel Perès(dir) Ensemble Organum [Harmonia mundi France HMC901590]
◆Guillaume de Machault:Messe de Nostre Dame, Le Lai de la Fonteinne, Ma Fin est mon commencement
Paul Hillier(dir.) The Hilliard Ensemble [Hyperion CDA66358]


【参考サイト】
◆IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー http://imslp.org/wiki/
(クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。日本語解説あり)



共通テーマ:音楽

アレグリ『ミゼレーレ』他(Gimell) [Allegri]

■The Tallis Scholars: Allegri MISERERE
Gimell CDGIM 339 (輸入盤・旧盤)
G4549392f.JPG

【演奏】
ピーター・フィリップス指揮
タリス・スコラーズ

【曲目】
・グレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri,c.1582-1652)
『ミゼレーレ』

・ウィリアム・ムンディ(William Mundy, c.1529-1591)
『天の父の声は』

・ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina,c.1525-1594)
『教皇マルチェルスのミサ』

録音:1980年、オックスフォード、マートン・カレッジ礼拝堂。
旧盤は、1981年にイギリスHMVのクラシック音楽チャート第1位となるなどヒットを記録。
現在は、旧盤と録音内容の同じ25周年記念盤(Gimell GIMSE401)、及び、新録音盤(Gimell CDGIM041)が発売中(ただし、新録音盤では、ムンディの『天の父の声は』は収録されず、代わってデボラ・ロバーツ版のアレグリ『ミゼレーレ』が収録されている)。
タリス・スコラーズの音源を発売する目的で設立されたギメル・レコード、ナクソス・ミュージック・ライブラリー等では、ダウンロード販売も展開されている。
Gimell Records http://www.gimell.com/
Naxos Music Library(無料試聴あり)  http://ml.naxos.jp

【作曲者】
グレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri,c.1582-1652.2.7)は、イタリア、ローマ生まれの司祭、作曲家。画家コレッジオの一族の出身で、ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina,c.1525-1594)の門人、ジョヴァンニ・マリア・ナニーノ(Giovanni Maria Nanini)に作曲を学び、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会の聖歌隊員を経て、1607年にフェルモ大聖堂楽長に就任した。アレグリの作品には、1618年から1619年に出版された2巻の『教会コンチェルト』及び1621年に出版された2巻の『モテット集』がある。その作品が教皇ウルバヌス8世の目にとまり、1629年12月6日、アレグリは、ヴァチカン宮殿に付属するシスティーナ礼拝堂聖歌隊に迎えられ、そこに終身在職した。『ミゼレーレ』は、アレグリの最も有名な作品であり、未発表のモテット、ミサ曲、器楽曲等も多数残されている。

【作品の周辺】
『ミゼレーレ』は、旧約聖書の詩編51(50)(ダビデ王の悔悛の祈り)をテキストとする9声部の合唱曲で、4声部(ソプラノ2、アルト、バス)と空間的に離れた5声部(ソプラノ2、アルト、テノール、バス)が交唱形式で歌い、バスの独唱を挟み、最終節で初めて9声部となる。自身、カストラートであったと伝えられる作曲者アレグリは、当時の教会音楽としては際立った高音を用い、まさに昇天していくかのような崇高な印象を与えることに成功している。
1630年代に『ミゼレーレ』の実演に接した教皇ウルバヌス8世は、そのあまりの美しさに門外不出の秘曲とした。そのため、『ミゼレーレ』は、システィーナ礼拝堂において、毎年、復活祭に先立つ聖務週間の朝課で、教皇、枢機卿をはじめとする限られた聴衆のみが耳にすることを許される曲となり、写譜や楽譜の持ち出しは、破門をもって厳しく制限された。カトリック教会では、復活祭の前週を聖週間としてキリストの受難をしのび、その最後の三日間(聖水・木・金曜日)の深夜に行われる朝課は、一般に、曲の進行にあわせて、13人の使徒を象徴する13本の蝋燭を1本ずつ消していき、最後にあたりをイエス・キリストの死を象徴する深い闇が包むような次第で行われる、カトリック教会の総本山であるシスティーナ礼拝堂では、聖水曜日および聖金曜日の朝課で『ミゼレーレ』が演奏されてきた。2008年に放送されたBBCの番組で、指揮者のハリー・クリストファーズとザ・シックスティーンは、アレグリの活動した時代近くまで遡るヴァチカンの楽譜を用いて、現在知られているものよりシンプルな『ミゼレーレ』を演奏しているが、*ミケランジェロ作の天井画『天地創造』や祭壇画『最後の審判』で知られる荘厳なシスティーナ礼拝堂の朝課という限られた演奏機会ともあいまって、無伴奏の賛歌『ミゼレーレ』が聴衆に大きなインパクトを与えたであろうことは容易に想像できる。
『ミゼレーレ』にはまた、1770年に、当時14歳だったW.A.モーツァルトが父レオポルトとローマを訪れた際、この曲を一度ないし二度聴いて、正確な採譜に成功したという有名なエピソードがある。ときの教皇クレメンス14世は、秘曲を公にしたモーツァルトの行為を咎めなかったばかりか、むしろその才能をたたえ、音楽家としては、オルランドゥス・ラッスス(Orlandus Lassus<Orlando di Lassoとも表記>c.1532-1594.6.14)に次いで史上二人目の教皇庁騎士に任じ、黄金拍車勲章を授けた。モーツァルトは『ミゼレーレ』をシスティーナ礼拝堂の外に持ち出した最初の人物ではなく、1730年頃には既に『ミゼレーレ』の写譜が出回っていたという説が有力であるが、1770年に旅行中のモーツァルト父子と接したイギリスの音楽学者チャールズ・バーニー博士が、翌1771年に『ミゼレーレ』を含む教皇庁の楽譜集を出版したのを機に、『ミゼレーレ』はヨーロッパ中に広まった。『ミゼレーレ』は、その後、フェリックス・メンデルスゾーンやフランツ・リストによって取り上げられたことでも知られている。
現在もシスティーナ礼拝堂の聖務週間に歌われている『ミゼレーレ』は、教会音楽のなかで最も人気のある作品のひとつであり、ルネサンス音楽末期の代表的作品としてしばしば録音されている。『ミゼレーレ』は、実際には、バロック期に作曲されたにもかかわらず、ルネサンス音楽のポリフォニー様式(和声的様式)を採用し、パレストリーナ『教皇マルチェルスのミサ』と同様に、歌詞を聴き取りやすくする作曲上の意図が感じ取れる。このあたりが、『ミゼレーレ』が教皇のお膝元にあって保守的なローマ楽派の代表作と評される所以でもある。


【歌詞】

◆『ミゼレーレ』仮訳(英語訳より重訳、『聖書 新共同訳』参照)

Miserere mei Deus, secundum magnam misericordiam tuam et secundum multitudinem miserationum tuarum dele iniquitatem meam.
神よ 憐れみ給え, 御慈しみをもって 深い御憐れみをもって 背きの罪を拭い給え.

Amplius lava me ab iniquitate mea et a peccato meo munda me.
我が咎をことごとく洗い 罪より清め給え.

Quoniam iniquitatem meam ego cognosco et peccatum meum contra me est semper.
背きの罪を我は知れり 我が罪は常に我の前にあり.

Tibi soli peccavi et malum coram te feci, ut iustificeris in sermonibus tuis et vincas cum iudicaris.
あなたに ただあなたのみに我は罪を犯し,御目に悪事と見られることをせり
あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはなき.

Ecce enim in iniquitatibus conceptus sum et in peccatis concepit me mater mea.
我は咎のうちに産み落とされ 母が我を身籠りしときも 我は罪のうちにあり.

Ecce enim veritatem dilexisti: incerta et occulta sapientiae tuae manifestasti mihi.
あなたは我が心のうちのまことを喜ばれ 知恵を悟らせ給う.

Asperges me hyssopo et mundabor; lavabis me et super nivem dealbabor.
ヒソップの枝で我が罪を払い給え,我の清くなるよう
我を洗い給え,雪よりも白くなるよう.

Auditui meo dabis gaudium et laetitiam et exsultabunt ossa humiliate.
歓喜の声を聞かせ給え あなたによって砕かれしこの骨が喜び躍るよう.

Averte faciem tuam a peccatis meis et omnes iniquitates meas dele.
我が罪に御顔を向けず 我が咎をことごとく拭い給え.

Cor mundum crea in me, Deus, et spiritum rectum innova in visceribus meis.
神よ、我に清き心を創り ゆるがなき霊を新たに授け給え

Ne proiicias me a facie tua, et spiritum sanctum tuum ne auferas a me.
御前から我を退けず あなたの聖なる霊を我より取り上げることなかれ.

Redde mihi laetitiam salutaris tui et spiritu principali confirma me.
御救いの喜びを我に味わわせ 自由なる霊によって支え給え 

Docebo iniquos vias tuas: et impii ad te convertentur.
あなたに背く者たちに あなたの道を我は教えん 罪人が御もとに立ち帰るように.

Libera me de sanguinibus Deus, Deus salutis meae, et exsultabit lingua mea iustitiam tuam.
神よ、我が救いの神よ 流血の災いから我を救い給え 恵みの御業をこの舌は喜び歌わん.

Domine labia mea aperies, et os meum annuntiabit laudem tuam.
主よ、我が唇を開き給え この口はあなたへの賛美を歌わん.

Quoniam si voluisses sacrificium dedissem utique; holocaustis non delectaberis.
もしあなたが生贄を喜ばれ 燔祭が御旨にかなうなら それらを我は捧げん

Sacrificium Deo spiritus contribulatus: cor contritum et humiliatum, Deus, non despicies.
神の求める生贄は打ち砕かれし心 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られ給わず.

Benigne fac, Domine, in bona voluntate tua Sion, ut aedificentur muri Ierusalem.
御旨のままにシオンを恵み エルサレムの城壁を再び築き給え.

Tunc acceptabis sacrificium iustitiae, oblationes, et holocausta: tunc imponent super altare tuum vitulos.
そのとき、正しい生贄や献げ物、燔祭があなたに喜ばれ 
あなたの祭壇に雄牛が捧げられん.

【演奏の周辺】
タリス・スコラーズは、1973年に、ピーター・フィリップス(Peter Phillips)によって設立されたイギリスの声楽アンサンブル(混声合唱団)。タリス・スコラーズとは、16世紀イギリスの作曲家トマス・タリス(Thomas Talis, c.1505-1585)の音楽を学びきわめる人々を意味する。
その名の通り、ルネサンス期のミサ曲やモテットなど、教会音楽を主要なレパートリーとしており、ノンビブラートの透明な声、音程の正確さ、和声の完璧な調和、明瞭な旋律線の追求などで知られる。イギリスの作曲家では、トマス・タリスの他に、ウィリアム・バード(William Byrd,1543-1623)、フランドルの作曲家では、ジョスカン・デ・プレ(Josquin Desprez,c.1440-1521)、スペインの作曲家ではトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(Tomas Luis de Victoria,1548-1611)など、いずれも演奏には定評がある。また、ハインリッヒ・イザーク(Heinrich Isaac,c.1450-1517)をはじめ、あまり知られていない作曲家の作品の紹介にも積極的である。
タリス・スコラーズは、教会やコンサート・ホール等での演奏活動と並行して、独自レーベルであるギメル・レコードで多数の録音を行っており、古楽界で初めて『グラモフォン』誌“Record of the Year”に選ばれるなど、受賞歴も数多い。タリス・スコラーズは、1994年に、システィーナ礼拝堂で行われたミケランジェロ「最後の審判」の修復完成記念行事に招聘され、『ミゼレーレ』を演奏した。同年にはまた、バシリカ様式教会建築の代表例として世界遺産に登録されているローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会で、同教会ゆかりのパレストリーナ没後400周年記念コンサートを行った。サンタ・マリア・マッジョーレ教会は、システィーナ礼拝堂聖歌隊ほか有名教会の楽職を歴任し、教会音楽の父とも呼ばれる偉大な作曲家、パレストリーナがそのキャリアの初期に聖歌隊員を務めた教会である。このパレストリーナ没後400周年記念コンサートは、ヴァチカンおよびローマ市当局の協力を得て、教会周辺の通行を規制し、教会の窓を二重にするなど防音に配慮して行われたもので、ローマ教皇庁関係者や各国のヴァチカン使節、イタリア大使等も列席した。このパレストリーナ没後400周年記念コンサートの模様は、レーザーディスクの発売後、数年間廃盤となっていたが、2004年にDVD化されている。
オックスフォード大学でルネサンス音楽を修めたフィリップスは、ルネサンス教会音楽の研究者としても活動しており、その成果物としては、ギメル・レコードから出版された『1549年から1649年のイギリス教会音楽(English Sacred Music 1549-1649)』等がある。

【関連動画】
◆クリストファーズ指揮ザ・シックスティーン:アレグリ『ミゼレーレ』*




◆タリス・スコラーズ:アレグリ『ミゼレーレ』





【参考サイト】
◆IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー http://imslp.org/wiki/
(クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。日本語解説あり)


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ペルゴレージ『スターバト・マーテル』(ACCORD) [Pergolesi]

■Giovanni Battista Pergolesi: Salve Regina, Stabat Mater
ACCORD 464 236-2 [DDD Stereo] (輸入盤)

ACD4642362f.JPG


【演奏】
ミーケ・ファン・デル・スルイス(S)
ジェラール・レーヌ(CT)
ルネ・クレマンシック(dir, orgue positif)
ファビオ・ビオンディ(Vn)
ヒロ・クロサキ(Vn)
マウリツィオ・ナッデオ(Vc)他

【曲目】
ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ
(Giovanni Battista Pergolesi, 1710.1.4 – 1736.3.17)
『サルヴェ・レジーナ』
『スターバト・マーテル』

1986年9月、ウィーンにおけるスタジオ録音(録音時間:53’41)。
2003年に廉価盤として再発売された。

【作品の背景】
『スターバト・マーテル(Stabat Mater「悲しみの聖母」「聖母哀傷」)』は、我が子イエス・キリストが磔刑となった十字架の下にたたずむ悲しみの聖母に祈りを捧げる内容の作品である。そのタイトルは、ラテン語詩の最初の一行(Stabat mater dolorosa悲しみの聖母はたたずみ給えり)に由来する。
ラテン語詩の作者は、フランシスコ会修道士ヤコポーネ・ダ・トーディ(Jacopone da Todi, 1220-1306)とされてきたが、現在では、聖ボナヴェントゥーラ(Bonaventura,1221-1274)、あるいは、他のフランシスコ会修道士とする説が有力である。押韻の整えられた、各節8-8-7音節の3行詩から構成される全20節の詩文は、使用テキストが異なるのか、あるいは、作曲者が手直しを加えたのか、歌詞にはいくつかバリエーションが存在し、yとiなど、表記のゆれも見られる。また、聖金曜日の晩祷では、短縮バージョンも用いられた。
『スターバト・マーテル』は、一般に、聖歌というよりセクエンツィア(続唱)として扱われる。セクエンツィアは、元来アレルヤ唱allelujaの最後の a など母音を長く続けて歌う歌唱法を指していたが、次第に、その旋律に創作詩をあてるスタイルが生まれ、独立した楽曲として成立した。その後、ルターの宗教改革に対抗してカトリック教会が行ったトリエント公会議(1545-1563年)では、礼拝の標準化が行われ、公認されたセクエンツィア(4種)以外はミサでの使用が禁じられた。しかし、『スターバト・マーテル』は、非公認扱いとされた後も人気が高かったために、イタリア、フランス等で用いられ続け、1727年に、聖母マリアの七つの悲しみの祝日(四旬節中枝の主日の前の金曜日および毎年9月15日)に歌われるセクエンツィアとして、カトリック教会の公式ミサ典礼および聖務日課の祈り(現・教会の祈り)に採用され、現在に至っている。

【歌詞】

◆『サルヴェ・レジーナ』仮訳(英語訳より重訳、公教会祈祷文を参照)

Salve Regina, Mater misericordiae, Vita, dulcedo et spes nostra salve.
めでたし、元后 憐れみ深き御母、我らの命、慰めおよび望み めでたし

Ad te clamamus, exules filii Evae, ad te suspiramus gementes et flentes.
In hac lacrymarum valle.
我ら逐謫の身なるエヴァの子なれば、御身に向かいて呼ばわり
この涙の谷に泣き叫びて ひたすら仰ぎ望み奉る

E ja ergo advocata nostra illos tuos misericordes oculos ad nos converte
ああ我らの代願者よ、憐れみの御眼もて我らを顧み給え

Et Jesum, benedictum fructum ventris fui nobis post hoc exilium ostende.
またこの逐謫の終わらんのち、尊き御子イエズスを我らに示し給え.

O Clemens, o pia, o dulcis Virgo Maria.
寛容、仁慈、甘美にまします 童貞マリア


◆『スターバト・マーテル』仮訳(公教会祈祷文を参照)

Stabat Mater dolorosa, Juxta crucem lacrymosa, Dum pendebat filius.
悲しみに沈める御母は涙にむせびて 御子の懸かり給える十字架のもとに たたずみ給えり

Cujus animam gementem, contristatam et dolentem, Per transivit gladius.
嘆き憂い悲しめるその御魂は 鋭い刃もて 貫かれ給えり

O quam tristis et afflicta Fuit illa benedicta Mater Unigeniti
天主の御独り子の 尊き御母は いかばかり憂い悲しみ給いしぞ

Quae moerebat et dolebat, Et tremebat, cum videbat Nati poenas incliti!
尊き御子の苦しみを見給える 慈しみ深き御母は 悲しみに沈み給えり

Quis est homo qui non fleret, Christi matrem si videret In tanto supplicio!
キリストの御母の かく悩み給えるを見て 誰か悲しまざる者あらん

Quis posset non contristari Piam matrem contemplari Dolentem cum Filio!
キリストの御母の御子とともに かく苦しみ給うを見て 誰か悲しまざる者あらん

Pro peccatis suae gentis Vidit Jesum in tormentis Et flagellis subditum.
聖母はイエズスが 人々の罪のため 責められ鞭打たるるを見給えり

Vidit suum dulcem Natum Marientem, desolatum, Dum emisit spiritum.
聖母はまた最愛の御子が 御死苦のうちに棄てられ 息途絶え給うを眺め給えり

Eja Mater, fons amoris, Me sentire vim doloris; Fac ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる御母よ 我をして御慈しみのほどを感ぜしめ ともに涙を流せしめ給え

Fac ut ardeat cor meum In amando Christum Deum, Ut sibi complaceam.
我が心をして 天主たるキリストを愛する火に燃えしめ 一にその御心にかなわしめ給え

Sancta Mater, istud agas, Crucifixi fige plagas Cordi meo valide.
聖母よ、十字架に懸かり給いし御子の傷を我が心に深く刻み給え

Tui Nati vulnerati, Tam dignati pro me pati, Poenas mecum divide.
我がためにかく傷つき給いし御子の苦しみを我に分かち給え

Fac me vere tecum flere, Crucifixo condolere, Donec ego vixero
我が命ある限り 御身とともに真実の涙を流せしめ、御子が十字架に懸けられ給いし
苦しみを得しめ給え

Juxta crucerm tecum stare, Te libenter sociare In planctu desidero.
我、十字架の側に御身と立ちて、相共に嘆かんことを望まん

Virgo Virginum praeclara, Mihi jam non sis amara: Fac me tecum plangere.
乙女の中のいと清き乙女よ、願わくは、我を排け給わずして、共に嘆くを得しめ給え

Fac ut portem Christi mortem, Passionis fac consortem et plagas recolore.
我にキリストの死を負わしめ、その御苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え

Fac me plagis vulnerari, Cruce hac inebrriari, Ob amorem Filii.
御子の御傷をもって我に傷つけ、その十字架と御血とをもって、我を酔わしめ給え

Inflammatus et accensus Per te Virgo, sim defensus In die judicii.
審判の日の業火より、乙女よ、御身によりて守り給え

Fac me cruce custodiri Morte Christi praemuniri Confoveri gratia.
ああ、キリストよ、我この世を去らんとき、御母によりて勝利の報いを得しめ給え

Quando corpus morietur, Fac ut animae donetur Paradisi Gloria.
我が肉身は死して朽つるとも、霊魂には、天国の永福をこうむらしめ給え

Amen
アーメン

【作曲者】
 『スターバト・マーテル』には、中世・ルネサンス期の大作曲家であるジョスカン・デ・プレ、パレストリーナをはじめ、多くの作曲家が曲を付してきた。例えば、有名な作品としては、ヴィヴァルディ、A.スカルラッティ、ハイドン、ロッシーニ、ドヴォルザーク、シマノフスキ、プーランク、ペルト、ペンデレツキなどのものがある。これら数多ある『スターバト・マーテル』のなかでも最高傑作と名高いのが、2010年に生誕300年を迎えた作曲家、ペルゴレージの作品である。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージは、1710年1月4日、イタリア北部、マルケ州イェージに測量技師の子として生まれた。生来虚弱で、片足が不自由だったと伝えられるが、幼い頃から作曲とヴァイオリンを学び、その才能を嘱望された。イェージの貴族、ピアノッティ侯爵の援助により、ナポリのポーヴェリ・ジェズ・クリスト音楽院に進み、声楽、ヴァイオリンおよび作曲を学んだ。
1731年に音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心(La conversione e morte di San Guglielmo )』を作曲、翌1732年からスティリアーノ侯爵に仕えた。同年オペラ・ブッファ『妹に恋した兄(Lo frate 'nnamorato)』で成功をおさめ、さらに、ナポリ大地震後に、ナポリ市から依頼されたミサ曲で名声を得た。1733年8月サン・バルトロメオ劇場で上演されたオペラ『誇り高き囚人(Il prigioner superbo)』の幕間劇として作曲された『奥様女中(La Serva Padrona)』は、ペルゴレージの作品中、最も有名なもののひとつである。1734年からは、マッダローニ公に仕え、ナポリ楽長に就任、1735年には、オペラ『オリンピアーデ(L'Olimpiade)』をローマで初演するが失敗し、ナポリに戻った。この頃から健康を害したペルゴレージは、ナポリ近郊の温泉保養地ポッツオーリで療養しながら、オペラ・ブッファ『フラミニオ(Il Flaminio)』を作曲し、ナポリのヌオーヴォ劇場で好評を得た。しかし、1736年にペルゴレージの病状は悪化し、ポッツォーリの聖フランシスコ修道院に身を移した。ここで、ナポリ在住貴族の集まりである悲しみの聖母騎士団(Cavalieri della Virgine dei Dolori)から、20年来歌われてきたA.スカルラッティの曲が時代遅れになったという理由で委嘱を受け、ナポリのサンタ・マリア・デイ・セッテ・ドローリ教会のために作曲したのが『スターバト・マーテル』と『サルヴェ・レジーナ(Salve Reginaめでたし女王)』である。1735年3月に、カリアティ公の令嬢で、身分違いを理由にペルゴレージとの結婚を反対され、ナポリのサンタ・キアラ教会付属修道院の修道女となっていたマリア・スピネッリが亡くなったのを機に、ペルゴレージはオペラ・ブッファの作曲を一切やめ、それまで以上に宗教音楽の作曲に精魂を傾けたという説もある。ペルゴレージは『スターバト・マーテル』と『サルヴェ・レジーナ』の二曲を完成させた後間もなく、結核により、わずか26歳の生涯を閉じた。
このあたりの夭折の天才のエピソードは、W.A.モーツァルトを彷彿とさせるが、バロック期(1600-1750) の音楽家ながらオペラ・ブッファの様式を完成させ、早くも初期古典派様式の到来を予見させたペルゴレージの名声は、没後、さらに高まり、その結果、大量の偽作が出回ることとなった。ペルゴレージの代表作は、音楽史に名を残した最初のオペラ・ブッファ『奥様女中』と『スターバト・マーテル』で、前者は、1746年と1752年にパリで上演され、イタリア音楽とフランス音楽の優劣を問うブフォン論争を巻き起こすきっかけとなった。また、後者は、最晩年のJ.S.バッハがドイツ語モテット『我が罪を贖い給え、いと高き神よ( Tilge, Höchster, meine Sünden BWV1083)』として編曲したことでも知られている。
ペルゴレージの『スターバト・マーテル』は、A.スカルラッティの確立した弦楽を伴奏とした二声部のスタイルを踏襲しつつも、ソプラノ、アルト、それぞれのソロとデュオをバランスよく配した美しい曲に仕上がっている。しかし、発表当時、あまりの流麗さから、当時の音楽界の権威で、モーツァルトに音楽教育を行ったマルティーニ神父(Giambattista Padre Martini、1706-1784)は、「宗教音楽というより、オペラ・ブッファのようだ」と厳しく批判したと伝えられる。

【演奏の周辺】
『スターバト・マーテル』の演奏には、LPの時代から名盤とされるものが数多く揃っており、古楽の演奏スタイルのものだけでも相当な数の録音がある。古楽の演奏では、ボーイソプラノやカウンターテナーを起用する演奏方式が主流だが、近年は、ソプラノ・パートに成人男声を起用したものが登場している。
ルネ・クレマンシック(René Clemencic, ドイツ語の発音は、レネー・クレメンチッチに近い)は、1928年2月27日、オーストリア・ウィーン生まれの作曲家、指揮者、演奏家。リコーダー、鍵盤楽器(クラヴィコード、チェンバロ、オルガン<ポジティヴオルガンを含む>)を学ぶとともに、ウィーン大学で哲学博士号を取得している。1958年にムジカ・アンティクワを創立し、中世、バロック音楽の古楽器演奏を開始、1968年にクレマンシック・コンソートを結成した。ウィーンを本拠地として、中世、ルネサンス、バロック期のオペラ、教会カンタータ、典礼劇等の発掘蘇演を行っている。
長いキャリアを持つ団体だけに録音も多いが、クレマンシック・コンソートのCDのなかでも、ウィーンの宮廷音楽家、ヨハン・ヨーゼフ・ フックスの「レクイエム」(死者のためのミサ曲)、12世紀に起源を持つ「カルミナ・ブラーナ」の二枚はとりわけ評価が高い。クレマンシック・コンソートのメンバーは固定されておらず、初期には、アンサンブル・ジル・バンショワを主宰するドミニク・ヴェラールや、アンサンブル・クレマン・ジャヌカンを主宰するドミニク・ヴィス等も参加していた。また、ルネ・クレマンシックは、母国語のドイツ語以外に、英語、フランス語、イタリア語に堪能であり、ラテン語、古高ドイツ語、中世フランス語についても研究を重ねた。1992年には、ヘブライ語のオラトリオ「カバラ(Kabbala)」を作曲している。2008年には、ルネ・クレマンシックの80歳の誕生日を記念して、テレビ、ラジオで特集番組が組まれている。
クレマンシック盤は、現在では、指揮者、指導者としても活躍するレーヌ、ビオンディに、ヒロ・クロサキ、マウリツィオ・ナッデオなど、豪華メンバーによる録音で、「明確な個性と深い情感を兼ね備えた演奏」、「残響が強すぎる録音が難点だが、随所にくわえられた即興的な装飾が聴きもの」*との紹介がなされている。廃盤の多い古楽のCDの世界で、初期の名盤が廉価で再発され、ロングセラーとなっている貴重な一枚である。
なお、レーヌは、1985年に、17~18世紀のイタリア、フランス音楽をメイン・レパートリーとするイル・セミナリオ・ムジカーレを結成し、活動の拠点としており、1997年2月に、ヴェロニク・ジャンス(S)とペルゴレージの『スターバト・マーテル』(Virgin classics)の再録音**を行った。また、1998年10月には、サンドリーヌ・ピオー(S)とA.スカルラッティの『スターバト・マーテル』(Virgin classics)を録音しており、それぞれ持ち味をいかした演奏を聴き比べることができる。ロックシンガーからカウンターテナーに転じたレーヌは、これまで、古楽以外に、現代音楽、クラシック、ロックの録音を残してきたが、2007年、2008年には、ジャズとのコラボレーションを行っている。

*『古楽CD100ガイド』国書刊行会、2000年、87頁。


【関連動画】
◆Gérald Lesne(dir.) Il Seminario Musicale Pergolesi: Stabat Mater**


【その他の録音】
◆Pergolesi: Stabat Mater
Sebastian Hennig(soprano), Rene Jacobs(contralto)
Rene Jacobs(dir.) Concerto Vocale [Harmonia mundi France HMA1951119]
◆Pergolesi: Stabat Mater
Véronique Gens (soprano), Gérald Lesne(contralto)
Gérald Lesne(dir.) Il Seminario Musicale [Virgin Veritas 7243 5 45291 2 2]


【参考サイト】
◆IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー http://imslp.org/wiki/
(クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。日本語解説あり)


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